シリーズ践祚大嘗祭・1(2019年5月号)


 

WEBマガジン『神秘之國、日本

聖徳太子と秦氏と践祚大嘗祭〜天皇の謎を追う〜

その一

★前書き〜アメリカの独立記念日と日本の建国記念の日〜

 


 


 

 

 

 

聖徳太子と秦氏と践祚大嘗祭
〜天皇の謎を追う〜

その一


日本の古代史と天皇について考えるにあたっての前書き

★アメリカの独立記念日と日本の建国記念の日


 『74に生まれて』というアメリカ映画がある。
 オリバー・ストーン監督、トム・クルーズ主演の1989年制作作品で、日本公開は1990年であった。
  74の独立記念日に生まれたことを誇りに思うロン・コーヴィックを主人公としたベトナム戦争映画だ。ロン・コーヴィックは元海兵隊員で、今は反戦活動家という実在の人物で、物語はコーヴィック自身の体験談に基づくものであつた。

 『インデペンデンス・ディ』という、アメリカのSF映画があった。
 こちらは1999年制作、ローランド・エメリッヒが脚本、監督をした宇宙人の侵略もの。この『インデペンデンス・ディ』とは、アメリカの独立記念日、つまり74日のことなのである。
 independence、とはindependent、頼らないの形容詞であり、つまりは、自立する、独立する、ということを言っているわけである。だから、独立記念日を「インデペンデンス・ディ」というのである。

 この74は、アメリカ合衆国では最大の祭典が行われ、盛大なパレードやイベントが各地で行われる。ニューヨークでは四万発が打ちあがる大花火大会が行われ、アメリカ中が「独立記念日」を祝うのである。
 177674日、ジェファーソンが起草した宣言文を大陸会議で可決、この日、アメリカ合衆国として独立宣言されたものを記念しているわけだ。当時アメリカは、自由と民主主義を掲げた珍しい国であった。フランス革命は、この後に起こるわけである。

 一方で、アメリカでは黒人に対する奴隷制度や原住民(インディアン)の権利を奪う、人種差別が酷い、といった問題もあり、ずるずるとその後のアメリカの歴史に影を落としていく。しかし、それもアメリカ合衆国の本質であり、歴史なのである。
 ともかくも、アメリカ国民は、この独立記念日を心から誇りに思い、愛国を誓うのである。

 今年は2019年、7月4日を迎えると、アメリカ合衆国は243歳となるわけである。
 243年前というと、日本では安永の時代。第十代将軍徳川家治が江戸幕府の将軍。江戸時代の中期から後期へ移り変わる頃となる。

 ちなみに、あのワイアット・アープ兄弟ら保安官と、クラントン兄弟を中心とするカウボーイズがアリゾナ州トゥムストーンで、OK牧場の決闘を行ったのは18811026日だったが、それは明治14年のことで、板垣退助が日本初の近代政党自由党を結成したのが10月18日、翌月には日本最初の私鉄、日本鉄道が設立された年であった。
 また、同年74に、ビリー・ザ・キッドがパット・ギャレットによって射殺されたが、同日、日本初の生命保険会社、明治生命が創業している。アメリカの西部の時代は、近代化しようとしていた日本の明治時代と重なるのである。

 ところで、私はアメリカというと、ハリウッド、ハリウッドというと、やっぱり代表するスターは、ジョン・ウェインだと思っているが(古い?)、そのジョン・ウェインの遺作となったのが、ドン・シーゲル監督の『ラスト・シューティスト』という作品であった。ジョン・ウェィン本人がそうであったのだが、ウェィン演じる主人公が末期の癌に侵されていて、自分の人生の終結をガンマンとしての誇りをもって終わらせる、という西部劇であった。

 この映画の冒頭、ジョン・ウェインが少年から新聞を買うシーンがある。
 その新聞の見出しに「ヴィクトリア女王崩御」とある。1901122日に崩御した大英帝国の象徴的女王のことである。つまりこの映画の中の時代が、もう、西部開拓時代は終焉した20世紀であることを意味したわけだ。そして、劇中、ジョン・ウェィンは何度もこの新聞を読んでいるシーンがあって、こういうセリフがある。

 「女王はまれなほど長生きしたが、生涯権威を失わず、日和ったこともなかった。誇りを胸にカッコよく亡くなられた。俺はこういう女が好きだ」

 誇り高き、アメリカの西部を代表する男が「英国王室」に憧れているのだ、という描写である。威厳とその伝統に、である。

 西部劇というと、クリント・イーストウッド監督『許されざる者』という、1992年制作の傑作があった。イーストウッド最後の西部劇である。この映画の中で、リチャード・ハリス演じるイングリッシュ・ボブという男が出てくるが、名前の通り英国人である。
 大統領が暗殺されそうになった(1881年のジェームズ・ガーフィールド大統領暗殺未遂事件)という新聞記事を読みながら、汽車に乗り合わせたアメリカ人たちに、
 「私の見たところ、この国に必要な元首は国王や女王であって大統領ではありませんな。国王や女王は暗殺されない。なにしろ高貴な身分ですからな」と言うシーンがある。
 これも、アメリカ開拓民たちの英国王室に対する憧れ、コンプレックスを逆手にとって表現しているわけであるのだ。

 自らこの未開な大陸を開拓し、独立独歩で自給できる国を創り、民主主義国家を築いた。この誇り、正義と力、そして揺るがぬ愛国精神。これが、アメリカ人のアイデンティティである。
 しかし一方、伝統ある英国王室に対する憧れ、コンプレックスもある。歴史と伝統と威厳。これは、持たざるものがその価値を知る、そういうことなのである。

 自由と力があれば、世の中、なんでも手に入るのだ。と、これをアメリカン・ドリームという人もいるが、そのアメリカ人がどうしても手に入らないものは、英国王室のような歴史と伝統と威厳だと、彼らは知っているのだ。
 もちろん、英国はアメリカの元宗主国でもあり、そこから独立したわけではある。

 しかしそれは、英国に根があるアメリカ移民たちが、その根を断ち切り、アメリカ人として生きることを意味した。だが同時に、アイデンティティというものをどう保つのか、という命題も残ったことだろう。

 多分にそれは、『聖書』がその役割を果たしたのではないかと、私は思うのである。そして、多民族で構成され、異なる価値観の共有と裁きを、法と正義に委ねる採決のスタンダードが合衆国憲法であり法律であるとした。その合衆国に忠義を誓うことが彼らのアイデンティテイの根源となるわけで、その象徴、印が星条旗という国旗でもあったのだ。

 それでも、ヨーロッパの歴史や伝統、王室の威厳には、やっぱり憧れをもち続けたのだ。
 『トム・ソーヤの冒険』の著者マーク・トゥエインはそういった英国コンプレックスから脱して、本当の意味でアメリカの精神的独立を果たそうとした、という意図でこの作品を書いたと評されるのである。

 ミュージカル映画の傑作で、『巴里のアメリカ人』というジーン・ケリー主演の作品があった。1951年制作で、作品で使われる音楽は、ジョージ・ガーシュインとアイラ・ガーシュインが作曲、作詞した楽曲で、ガーシュインという人は、アメリカ独自の白人の音楽を創ることに貢献した音楽家である。

 アメリカ大陸の伝統音楽として、インディアンのものがあり、奴隷として連れてこられた黒人たちによって、ブルースやゴスペルがもたらされたが、ヨーロッパから来た白人の開拓者たちは、母国ヨーロッパの音楽は知っていたが、なんとか、アメリカのアイデンティティを表現する音楽が出来ないものかと、チャールズ・アイヴスやシェーンベルグといった当時のアメリカの音楽家たちは考えて、模索したのである。
 ガーシュインもその一人で、ジャズとクラッシックの管弦楽の融合としての『ラプソディ・イン・ブルー』を発表したりした。

 『パリのアメリカ人』はガーシュインがフランスのパリへ行ったときの印象を管弦楽として発表した曲であるが、『巴里のアメリカ人』という映画に、これがメインテーマとして使われたのである。この楽曲を元にジーン・ケリーが、この映画のために発掘したフランス生まれのダンサー、レスリー・キャロンと17分間に及ぶダンスシーンを、クライマックス・シーンで繰り広げるが、それは、パリが舞台で、印象派の画家たちの絵の中でその幻想的なダンスが、モダンバレエも含めて展開されるのである。
 その素晴らしさを評価され、この映画は、アカデミー作品賞をはじめとして六部門を獲ることとなる。ある意味、ミュージカル映画の頂点を極めた作品でもあったのだ。
 しかし、要はヨーロッパ・コンプレックスの寄せ集め、とも評価されるわけで、伝統とか、文化は、そう一夕一朝には出来ないもの、ということを、アメリカのクリエーターたちは、彼らの多くは移民であったが、それを自覚し、戦ってきた、という事実があったというわけである。

 アメリカ合衆国は、もう一つ大きな特色があって、あそこはアメリカ人はいても、アメリカ民族というものがいない。我々日本人は、日本民族でもある。しかしアメリカは多民族の社会、国である。だから、統一し民族としての伝統、歴史が無い。それを代替するアメリカ国民としてのオリジナルの文化、芸術は、ぜひとも必要だった、欲しがったのだと想像するのである。

 日本人は、そんなこと考える必要はない。自分たちに根ざした歴史、伝統、文化、生活様式が必然としてあるからだ。
 さて、そういう我々日本人には、日本の独立記念日というものが存在しないことにお気づきだろうか。
 あるじゃないか、という声が聞こえた?
 おそらくそれは、建国記念の日のことであろう。

 211

 アメリカの独立記念日とはまったく違う様相だ。
 国旗の掲揚、あるいは玄関先に出している家もほとんど無い。国民がこれを祝すということもほとんどない。話題になることも無い。愛国を口にすると右翼だといわれる。
 建国記念の日、といわれても、ピンと来ない、というのが、正直なところであろう。

 だって、日本は日本。そんなもの、ずっと昔からあるわけだから。
 屁理屈を言うと、太平洋戦争に負けて、GHQに占領されたことがあったから、一旦そこで日本の国としての歴史は途絶えている、という人もいるが、そもそも日本という国は、我々日本人が意識しないほど、当たり前に、ずっと昔からあったのだ。
 だから、改めて日の丸のもとに忠誠と愛国心を誓う必然性も無いわけである。
 実際、これは後日に詳しく書くこととなるが、いわば、アメリカ合衆国とは違って、日本と言う国号が、いつ、誰によって定められたのか、いつ建国されたのかは、明確にはわからないくらいに古いわけである。

 ちなみに、211が「建国記念の日」に定められた理由は、最初の天皇、神武が即位した日、ということから来ているのだ。

 『古事記』『日本書紀』に記される紀元節としての、記念日である。

 これによれば、日本は今年、建国2679年。アメリカとは比べ物にならない。
 ところで、アメリカ合衆国のCIA公式サイトでは、日本はBC660年の建国、世界最古の国だと認めている、とする情報がネットのあちこちに散見されるが、実際はどうなのだろう。

 あった。

 Japan 660 BCtraditional founding by Emperor JIMMU

 ここに書かれることは、紀元前660年が日本の伝説的建国記念日である、というニュアンスである。

 ただこれは、神話上でのことであり、日本がいつ日本の国となったのか、という命題はこのコラムで検証していくところだが、まず、何をもって建国とするのかが、あんまり古くて定義できない、と、まずはそう考えるわけである。
 でも、少なくとも、日本という国は、天皇の誕生とともに始まったといえよう。
 そして、天皇とともにあったということで間違いはない。

 『許されざる者』のリチャード・ハリスの言葉を借りると、
 「日本国の元首は、天皇であって、けっしてそれは暗殺されない。なにしろ高貴な方ですから」と、胸を張っていえるわけである。

 ちなみに、このセリフは事実であり、アメリカ大統領は過去、リンカーン、ガーフィールド、ウィリアム・マッキンリー、J・F・ケネディの四人が暗殺され、アンドリュー・ジャクソン、フランクリン・ルーズヴェルト、トルーマン、フォード、レーガンの5人が、暗殺の標的になったのである。アメリカ合衆国建国以来、250年に満たない歴史の中で、9人である!

 一方天皇は、祟峻天皇が、蘇我馬子の暗殺命令を受けた東漢直駒(やまとのあや・あたいこま)によって殺された、と『書記』は書いている。
 それはもう1400年も昔のこと。
 歴史学的には「天皇が暗殺された唯一の事例」とされている。
 ほかに、帝位を譲ってから流刑されたのや、自害した天皇はいたが、暗殺は聞かない。奈良時代から平安時代、鎌倉時代、戦国時代、江戸時代と、天皇暗殺は未遂も含めなかったのだ。これはほんとうに、高貴というか、威厳ゆえのことであろう。
 もっとも将軍の天下において天皇はさほど影響力は無かったともいえないことはないが、それでも将軍は天皇を退位させたり、自らが天皇になろうとはしなかったのである。

 日本は、どこかの国から独立をした、という経験の無い稀有な国でもある。
 だから独立記念日というものは設営されないわけである。
 となると、日本国建国の日は、『古事記』『日本書紀』にある、天皇神話から、借りてくるよりないのである。
 もちろんこれに対しては、国内から、科学的でない、根拠もない、という理由で否定する声もあるわけで、だから、「建国記念日」と言い切らずに「建国記念の日」と、の、が入っているわけなのである。

 首相官邸のホームページによると「建国記念の日は、建国をしのび、国を愛する心を養う、という趣旨のもとに、国民ひとりひとりが、今日のわが国に至るまでの古からの先人の努力に思いをはせ、さらなる国の発展を願う国民の祝日であります」とある。

 日本という国がここに存在していて、われわれ日本人はそこに住んでいっぱいその恩恵を授かっているわけだから、やっぱり、この国がいかに建国したのかを考えることは、我々日本人の常識的な義務ではなかろうかと思う。 恩恵は授かっているけど、国のことは知らん、というのは、懸命な態度ではないと思う。

 ただ、恩恵を授かっている実感がない、という人もいるかも知れない。

 それでも別に何も言われないし、困っているわけでもない。これが恩恵なのである。
 こんな国は、めったにないと思う。
 日本人は、生まれたときから日本人であって、あたりまえに日本という国があるのだ。
 日本人にとって、日本と言う国は、空気のようなものなのだ。空気なんてあたりまえにあるし、無いと死ぬことは知っていても、無いという状況を考えたことが無い。無くなってはじめて、あれは無くてはならない、尊いものだったのだと気づくのだ。

 ちなみに、何年か前の211のヤフーニュースで報じたことによれば、「建国記念の自覚」を米国、中国の人たちは9割が持っていて、日本人は2割だったとか……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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