『モーツァルトの血痕』 辞典
アントーニオ・サリエリ
(Antonio Salieri)
(1750~1825)
イタリアのレニャーゴ生まれの古典派を代表する作曲家。
神聖ローマ皇帝及びオーストリア皇帝に仕がえる宮廷学長(カペルマイスター)としてヨーロッパの楽団の頂点にいた人物である。
幼少のころから、チェンバロ、声楽、ヴァイオリンの音楽教育を受け、類稀な才能を顕した。両親が死去した後、北イタリアのパドヴァ、ヴェネツィアに住み、1766年にウィーンの宮廷へと招かれた。
以後、ウィーンに留まり、皇帝ヨーゼフⅡ世によって1774年に宮廷作曲家、1788年には宮廷楽長に就任し、亡くなる直前の1824年までその地位にあった。1817年にはウィーン学友協会音楽院の指導者に就任。また、ニュー・イヤー・コンサートで有名なウィーン楽友教会の黄金ホールの設計、特に空間性、音響効果の設計にも携わっている。
教育者としての評価も高く、有名な生徒として、ベートーヴェン、シューベルト、リスト、ツェルニー、フンメル、マイアベーア、モーツァルトの『レイイエム』を完成させたジュースマイヤー、モーツァルトの息子フランツ・クサーヴァーが彼の指導の恩恵を受けた。
作曲家としては、特にイタリア・オペラ、室内楽、宗教音楽において高い評価を受けた。43曲のオペラを残したが、最も成功したのは、パリのオペラ座で初演された『ダナオスの娘たち』(1784)と『タラール』(1787)だった。
サリエリに関する事柄で最も有名なのは、モーツァルトと対立したことであり、1820年代のウィーンではねサリエリがモーツァルトから盗作したり、毒殺しようとしたと非難するスキャンダルが起こった。ただし、これらは何一つ立証されていない。
これは、ロッシーニを担ぐイタリア派とドイツ民族のドイツ音楽を標榜するドイツ派の対立の中で、宮廷楽長を長年独占していたイタリア人サリエリが標的にされたといわれている。(また、モーツァルト自身も「ウィーンで自分が高い地位に付けないのは、サリエリが邪魔をする為」と主張していたという)。
また、キャサリン・トムソン著/湯川新、田口孝吉・訳『モーツァルトとフリーメーソン』によれば、1786年5月1日の歌劇『フィガロの結婚』の初演で、劇場最上階に陣取った一派が大声を出すなどの妨害があり、これはサリエリが画策し、学生たちを雇っての妨害工作であったとしている。
但し、映画『ママデウス』などで描かれているような、彼が精神病院で生涯を閉じたり、モーツァルトを死に追いやったと告白する場面は、当時のスキャンダラスな風聞を元にしており事実とは異なる。
実際に彼は死の直前まで入院していたが、それは痛風と視力低下が元で起こった怪我の治療の為である。ただ、身に覚えのない噂に心を痛めていたらしく、弟子のモシェレスにわざわざ自分の無実を訴えたところ、かえってこれがモシェレスの疑念を呼び、彼の日記に「モーツァルトを毒殺したに違いない」と書かれてしまう結果になる。
彼はイゼンロッシーニからも「モーツァルトを本当に毒殺したのか?」と面と向かって尋ねられたことがあり、その時は毅然とした態度で否定する余裕があったが、病苦と怪我で気が弱くなっていたのは事実である。
実際の彼は、経済的に成功した為か慈善活動にも熱心で、弟子からは一切謝礼を受け取らず、才能ある弟子や生活に困る弟子たちには支援を惜しまなかった。職を失って困窮する音楽家やその遺族の為に、互助会を組織し、慈善コンサートを毎年開催し、有力諸侯に困窮者への支援の手紙を書くなどしている。また、イタリア出身の為、最後まで流暢なドイツ語が話せなかった。
また、モーツァルトのミサ曲をたびたび演奏し、『魔笛』を評価するなど、モーツァルトの才能を認めて親交を持っていたことが明らかとなっている。なお、1791年のモーツァルトの死に際してはサリエリは埋葬に参列し、1793年1月2日、スヴーチン男爵の依頼によりモーツァルトの遺作『レクイエム』を初演した。
74歳で死去。
墓所はウィーン中央墓地、0ブロック(第二門を入って左側塀沿い)にある。
(Wikpedia)より。