モーツァルトの血痕・9(2019年9月号)


 

WEBマガジン『神秘之國、日本』

小説&オカルト辞典『モーツァルトの血痕』

第四章 18世紀のフリーメーソン(中編)

 


 


 

 

 赤・紫色の文字の部分をクリックしていただくと、人物・用語の解説や説明がでてきます。また音楽が聴ける場合もあります。
 索引がわりにお使いください。

 

 

 

 

 

 

第四章 18世紀のフリーメーソン(中編)

 

 

 

 

 ヴォルフィーは、1784年、ウィーンにあるフリーメーソンの小さなロッジ、〈善行〉に入会した。29歳であった。
 その入会が許される4日前に、ヴォルフィーは、ヘ長調のピアノ協奏曲(K459を完成させている。この曲を聴けば、彼の当時の心境がわかるであろう。
 冒頭のアレグロは、力強く、マーチのようなリズムで、五度にわたる主題があふれ出た自信と喜びを表現している。そして、問いと返答という形式と三回の繰り返しは、フリーメーソンの参入儀式を彷彿させる。第二楽章はどこか儀式的であり、フィナーレでは再び自信と喜びが高らかに謳われるのだ。

 ヴォルフィーの入会2ヶ月後には、ヴォルフィーの父、レオポルドと彼の友人、ヨーゼフ・ハイドンがフリーメーソンに入会している。
 これはヴォルフィーの勧めがあったことには間違いない。彼らが入会したのはヴォルフィーの所属した〈善行〉ではなく、〈真の融和〉というロッジであった。
 これは、〈善行〉と〈真の融和〉が同じ礼拝堂を集会場にしていたことと、〈真の融和〉の大親方が、イグナーツ・ボルンであったことが関係していたと思われる。
 イグナーツ・フォン・ボルンとレオポルドは旧知の仲であったらしく、レオポルドは、フォン・ボルンの人格と教養に深く敬愛の気持ちを持っていたのである。
 イグナーツ・フォン・ボルンは、もう一つの結社、この後で述べる、啓明団〈イルミナティ〉の指導的メンバーであった。ヴォルフィーも、彼に深く心酔し、翌年には、イルミナティのメンバーになるところだったし、そのことを強く希望していたが、後に述べる理由でそれは叶わなかった。

 そう……、これはヴォルフィーがまだ、フリーメーソンに入っていなかった、随分前のことだった。スヴィーチン男爵の口利きで、ヴォルフィーがある秘密結社の集会に参加するから一緒に来ないかといって、熱心に誘われたことがあった。それで私は一度だけ、その集会に顔を出したことがあったのだ。
 結社の名は、確か、「理性と人間性の敵に対抗する同盟」といっていた。
 おそらくこの時の集会は、まだ結社が発足したばかりの頃で、団員を集める為のものであったと思われるが、その集会は、夜の月光の下で開かれた、ということもあって、実に神秘的なものであったのだ。
 人々はたいまつを持って、ザルツブルグ近郊のアイゲンという人里離れた山へ行くと、そこには急流の滝や、生い茂った老木や大木があり、険しく切り立った岩場と大きな洞窟があった。
 集まった人たちは、その洞窟の中へと入って行くのだ。
 中は、まるで秘密の儀式が行われるような雰囲気だった。
 「理性と人間性の敵に対抗する同盟」の会合は、このような神秘的な洞窟で行われていたのだ。
 私はこの時、はじめて「理性と人間性の敵に対抗する同盟」の指導者と名乗る、若い男の演説を聞いた。
 彼は、よどみなく、流ちょうで、威厳を持った話しぶりで、聴衆を虜にするだけのカリスマ性を持っていることは、すぐにわかった。
 彼はこんなことを演説していた。

 「我々は、人民の幸福を守ることを約束する。その為身には人民を無知や迷信から解放せねばならない。我々がこの集まりを〈啓明〉とするのは、その目標を達する手段が啓明〈イリュミナシオン〉だからである。啓明は、疑わしい未世を信じるより、現世に光明を与えることを成し遂げるものである。それは、偽善、迷信、無知、偏見の暗雲を追い払い、理性の太陽によって、知性に光明を与えることを意味するのだ!」

 その若き指導者は、強弱を巧みに操った話術と、よく通る声でそう断言していた。そしてその演説の内容は、フリーメーソンで謳われていた啓蒙の理想から、一歩踏み込み、かつ、具体的な実践法が示されていたように思えた。
 この「理性と人間性の敵に対抗する同盟」なる結社が直後に、イルミナティと名前を変えたのである。
 そして、この若き指導者が、後に我々に、それは今いる諸君たちにも、大きな問題を投げかける、イルミナティの創設者、偉大なる、アダム・ヴァイスハウプトであったのだ!

 ヴォルフィーは、この演説にすっかり魅せられ、イルミナティに入ることを希望した。
 フォン・ボルンが、しばらくしてイルミナティに入り、その指導的立場に就いたことも関係があったと思う。だが、まずそれには、「スヴィーチン男爵から、まずはフリーメーソンの団員にならなければならないと言われた」とヴォルフィーから聞いたことを、私は覚えている。
 もっとも、ヴォルフィーに、フリーメーソンへの入団を勧めた最初の人物は、オットー・フォン・ゲミンゲン・ホルンベルグ男爵であったようだ。
 ゲミンゲン男爵は、ヴォルフィーがマンハイムにいた頃のパトロンで、フリーメーソンのロッジ、ヴォルフィーが所属していた〈善行〉の大親方であり、彼もまた、イルミナティの団員でもあったのだ。
 ヴォルフィーは、ドイツの音楽や芝居に理解を示していると聞いて、バイエルン選帝侯カール・テオドールを頼って、一時マンハイムに赴いている。ヴォルフィーは、そこの宮廷音楽家の地位を望んだが、宮廷に大きな影響力を持っていた、イエズス会の神父フォーグラーが、全く音楽を理解しない男だったらしく、ヴォルフィーとは対立し、大きな失意を持って、ザルツブルグへと戻ったのである。そしてザルツブルグでは大司教コロレードとも激しくぶつかり合い、罵りあって決別した。
 ヴォルフィーはこのことから、生まれ故郷であるザルツブルグにも大きな失望を感じ、今度は大いなる希望を持ってパリへと移った。フランスはイギリスに次ぐ先進的な思想を重んじると堅く信じていたヴォルフィーを待っていたものは、やはりザルツブルグ同様の冷酷な扱いだったのである。おまけにフランス語の社交界にも馴染めずに、そのうち彼は、フランス式をも忌み嫌うようになってしまった。
 ヴォルフィーが持っていた貴族社会への嫌悪は、こういうことの積み重ねがあってのことであろうことは、察するところである。

 そんな中にあって、ゲミンゲン男爵だけは、ヴォルフィーには敬愛するに値する人物だと信頼していたようだ。
 ゲミンゲンは、バーデンの外交官であったが、ドイツの演劇に深い理解を示した人物であった。ヴォルフィーは、通常イタリア語で詠われるオペラを、ドイツ語で歌わせようとこだわった面もあったので、互いに共感しあって親交を深めたと思われる。現に、不遇なパリ時代を、精神と経済の面で支援したのが、ゲミンゲン男爵であったと聞いている。
 これに恩を感じたヴォルフィーは、彼の為に無料で作曲を引き受けたりしたほどだった。
 この頃、ゲミンゲンによって、彼のフリーメーソンの盟友たちを次々に紹介され、その人脈の中で、様々な国の哲学、思想、芸術の形式に接したのである。
 ヴォルフィーがフリーメーソンに入会するのは、自然な流れだったのである。

 ヴォルフィーの葬儀を取り仕切った疑惑のヴァン・スヴィーチン男爵は、ウィーンでヴォルフィーのパトロンになるわけだが、当時プロセインの外交官をやっていたスヴィーチン男爵をヴォルフィーに紹介したのも、ゲミンゲンであった。

 スヴィーチンは、ハイドンの友人でもあった。また、ヴォルフィーは男爵を通じて、ヘンデルヨハン・セバスチャン・バッハの音楽を知ることとなった。男爵はバロック音楽の愛好家であり、ヴォルフィーにしばしばヘンデルのオラトリオ『アキスとガラアテ』『メサイア』などの編曲を依頼し、自分の邸宅で演奏させていたようだ。
 ご存じだろうが、ハイドンが作曲したオラトリオ『天地創造』と『四季』の台本を書いたのは、彼、スヴィーチン男爵ある。

 ヴォルフィーは彼らの尽力もあって、フリーメーソンとなったが、そのフリーメーソンを介して、幅広い友人関係を構築し、支援者も増やしていったようだ。
 ここで私の知る限りの、ヴォルフィーのフリーメーソン人脈を披露してみよう。当時のヨーロッパにおける人脈の、これは縮図である。そう思っていただくと、フリーメーソンが当時のヨーロッパに与えた影響を、想像していただけると思う次第だ。

 ヴォルフィーの良き理解者だった、ヨーゼフ・フォン・ゾンネンフェルスは、ウィーン大学の国家学教授で、法学者であり、『フリーメーソン・ジャーナル』の編集者であり、レオポルドと同じ〈真の融和〉に属しながら、イルミナティにも所属していた。

 ヴェンツェル・バール公爵は、ヴォルフィーの演奏会には常に顔を出していた音楽通だったが、〈授冠の希望〉の団員であった。
 ヨハン・ネーポムク・エステルハージー・フォン・ガランダ伯爵は、自宅のサロンでしばし演奏会を催し、ヴォルフィーはそこによく指揮に招かれていた。このガランダ伯爵も〈授冠の希望〉の大親方であった。
 ヴォルフィーが作曲した『フリーメーソンのための葬送音楽』は、ガランダ伯爵の死に際して作曲されたもので、実際に伯爵の出棺時に、ヴォルフィーの指揮によって演奏されたのである。
 曲の譜面には『盟友メクレンブルグとエステルハージーの死去に際して』と、ヴォルフィーの一筆が添えられているが、もう一人のゲオルグ・アウグスト・フォン・メクレンブルグ・シュトレーリッツ大公は、宮廷付きの陸軍少将で、〈三羽の鷹〉の大親方であった。
 エステルハージー家はハンガリーの名門で、家族からは多数のフリーメーソンを輩出していた。その一人ニーコラス公爵は、ヨーゼフ・ハイドンの雇い主であった。

 カール・ルードヴィッヒ・シュミットは、ヴォルフィーが作曲したオペラ『後宮からの脱出』のペドリロを演じたことのある役者で、彼は自ら〈聖ヨセフ〉を創設し、大親方を務めていた人物でもあったし、モーツァルト一家と家族同様の親交があった、ヨハン・フィリップ・コーベンツル伯爵は、ウィーンの宮中事務副局長で副宰相であり、イルミナティの団員であった。
 同じく、家族同様の親交があったのが、ウィーンの社交界で重要な人物であった銀行家のヨハン・ヤーコブ・フライヘル・ゴンタルトは〈授冠の希望〉、ウィーン銀行の頭取であったヨハン・バプティスト・フォン・ブートーンは、〈三つの受冠の星〉の大親方であった。
 宮廷顧問官のヨハン・ヴェンツェル・ウガルテ伯爵は、ヴォルフィーとは旧知の仲であり、ブルグ劇場の支配人兼ヴァイオリンの名手として知られた男だった。彼は〈三羽の鷹〉の団員であった。コンスタンティン・ヤーコビという国務大臣も、モーツァルトの熱心な愛好家であったが、確かヴォルフィーと同じロッジにいたはずだ。

 その他、モーツァルト家と古い付き合いをしていた、ヨハン・フリードリッヒ・シュミットエーミリアン・ゴットフリート・エードラー・フォン・ジャカンローレンツ・レオポルド・ハシュカ……、このハシュカは、ハイドン作曲のオーストリア国歌『神よ、皇帝を護り給え〉の作詞家として名を馳せることとなる。
 そして、ヴォルフィーが借金を無心していた豪商人、ヨハン・ミヒャエル・プフベルグは〈真の融和〉の会計係だったのだ。

 ウィーンで楽譜の版元の為に版刻をしていたヨーゼフ・ザラドニチェクは、元ハンガリーの近衛兵で、ヴォルフィーと同じ〈善行〉に所属していた。

 あとはそうだな……、所属したロッジを私は失念してしまったが、クラリネット演奏者のアントン・シュタットラー、『後宮からの脱出』の台本を書いた劇作家のゴッサトリープ・シュテファニー、『エジプト王タモス』の台本を書いたトビアス・フォン・ゲプラー、そして私の劇団のプリマドンナ的存在であった、ヴォルフィーの義姉ヨーゼファーの夫であり、友人でもあったフランツ・ホーファらも、みんなフリーメーソンであったのだ。私の劇団にも、カール・ルートヴィヒ・ギーゼッケなど、フリーメーソンは何人かいた。
 このように、当時のウィーンの社交界と言えば、フリーメーソンの社交界でもあったのだ。

 そして、私も大いに敬愛した、偉大なる人格者、イグナーツ・リッター・ウント・エードラー・フォン・ボルン卿も、フリーメーソンの人脈で知己を得た人物であった。
 ヴォルフィーがその生涯で最も尊敬し影響された人物は、おそらくこのボルンであったと私は思う。彼こそは鋭く深い知的な論理で人類博愛を説く人道者であり、博学者であった。
 そして何より、オーストリアの各地にあったフリーメーソン・ロッジの総統者であり、イルミナティの指導的立場にいた人物でもある。
 フォン・ボルンが創設した〈真の融和〉も、ウィーンで最も大きなロッジであり、オーストリアのフリーメーソン全体に影響を与えた重要なロッジであった。とにかくたくさんの科学者や作家、芸術家が集まっていて、ロッジは図書館を持っていた。
 このロッジの目標は「教会組織にいる僧侶たちが抱いている迷信と狂言主義と闘い、またその支持者たちとも闘う」というものであった。
 その博識と啓蒙主義の精神の意見の媒体としての『フリーメーソン・ジャーナル』という、ゲミンゲンが編集する季刊雑誌を発行していたのもこのロッジであった。その発行部数は500とも600とも聞いていた。
 後に、これが問題になるのだが、〈真の融和〉ロッジにはイルミナティのメンバーが多く所属していた。

 イグナーツ・フォン・ボルン。

 彼こそが、冒頭で述べたもう一人の『彼』、つまり『魔笛』の企画に関わった人物であったのだ。

 17853月、ヴォルフィーは〈善行〉の中で、徒弟から職人に昇格するイニシエーションにパスするが、その後、わずか1ヶ月で親方に昇格した。
 そのことで、私とヴォルフィーの2人だけで祝杯を挙げた時のことだ。

 ヴォルフィーはその時、こう私に宣言した。
 「僕は近く、イルミナティに入るんだ。ボルン卿の理想は僕の理想さ。世の中の全ての人たちが、この政治的奴隷から解放されて、神の下で平等で自由な平和な世界で生きるんだよ。素晴らしいことじゃないか。いや、そうじゃない。当然の、世の中に生きている人たちの、神から与えられた権利だよ。
 でも、待っていても何も起こらない。まずは僕たちがそのことに気づき、行動を起こさないといけないんだ。イルミナティはそれを可能にしてくれる。新しい宗教と新しい道徳と新しい秩序を。それをイルミナティのメンバーたちは創造しようとしている。誰もが、これによって、無知と迷信から救済されるんだ」と。
 私はその言葉に対して、一つの疑問をぶつけた。
 「新しい宗教だって? 君はカトリックの信者じゃなかったのか」
 するとヴォルフィーは、こう答えた。
 「僕はカトリックの熱心な信者だよ。それは変わりない。確かにイルミナティも、ボルン卿自身も、カトリックの教会に対して非難し、罵倒さえもしている。でもそれは、カトリックの教会の体質、体制への非難であって、キリストを非難しているわけじゃないんだ。権威にしがみつき、堕落し、融通の利かない僧侶たちに対しての非難なんだ。僕もイルミナティの団員も、神は信じているんだ。創造主としての神をね。ただ、カトリックの教会の制度が問題なんだよ。カトリックの教えは正しいんだ」
 この思想は当然ながら、教会から危険視された。
 このことも、後に詳しく述べねばならない。

 それからこのことも言っておかねばならない。

 フリーメーソンと言えば、私が作詞し、ヴォルフィーが作曲したカンタータがある。
 フリーメーソン小カンタータ『我らの喜びを高らかに告げよ』(K623)という曲で、179111月に新たに作られたロッジ〈授冠の希望〉の殿堂を称える為のものだった
 作詞は、この私、シカネーダーによるものだ。
 そして実はこの曲こそが、アマデウス・ヴォルフガング・モーツァルトが完成させた最後の曲なのであったのだ。
 そして、読者諸氏はもうお気づきであろう。
 私が当初、ヴォルフィーの葬儀は、ごく少人数によって執り行われた。突然、法令を無視して一日繰り上がったがために、私も参列していない。そして、今名前を挙げた同志たちのほとんどが、ヴォルフィーの葬儀に参列していなかったし、病床中にあったヴォルフィーを見舞ったということもなく、手を差し伸べたわけでもなかったのだ。
 これを私は不可解なことであり、このことを後世の学者たちがこれを不思議だと思わなかったのは心外だと言った。
 モーツァルトの死因とフリーメーソン、あるいはイルミナティは何らかの関与がある、と、なぜ誰も思わなかったのだろう……

 

 


 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※色が違う箇所がありますが、意味意図はありません。

 

 

 


⇦目次へ



■申し込み詳細⇒  WEBマガジン・中山市朗 『神秘之國、日本』

■『神秘之國、日本』最新号&バックナンバーへ


 

中山市朗 『神秘之國、日本』 配信予定表

各項目を、クリックして下さい。

配信済みのものは、記事が読めます。

『無料配信』のものは、購読者以外の方も、読むことができます。


『神秘之國、日本』・ 最新号&バックナンバーへ

中山市朗『神秘之古代史』TOPページへ