モーツァルトの血痕・3


 

WEBマガジン『神秘之國、日本』

小説&オカルト辞典『モーツァルトの血痕』

第一章 モーツァルトの死(後編)

 


 


 

 

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 第一章          モーツァルトの死(後編)

 

 

 ヴォルフィーが死んだ当日、彼の死は役所に届けられ、ウィーン市死亡台帳に記された。
 そこに記された彼の死因は、「僕は急性粟粒疹熱(ミリアリア)」だった。

 急性粟粒疹熱?

 そんな病気がウィーンで流行っていたなんて、聞いたことも無い。
 だが、哀れなコンスタンツェは、この病気が今、ウィーンで流行している悪性の伝染病であると、主治医のクロセットから聞かされると、自分も愛する夫の後を追おうと、その枕に顔を押し付けたのである。
 私はというと、それはもう、ショックのあまり、昼も夜も自宅に籠り、それでもヴォルフィーが、あの朝のように私のもとに現れてくれないかと、期待もしていた。
 彼と話すべきことが残っていたし、処理せねばならない問題もたくさんあった。それらは、みな、ヴォルフィーの望むようにすべきだとも思っていた。

 ところで私は、親友、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの葬礼に出席していない。
 後世の学者たちが、これを不思議だと思わなかったのは心外だ。
 私は、欠け替えのない親友の葬礼には、出席するつもりだったのだ。もちろんのことじゃないか。
 ところが、何の知らせもないまま、葬礼は、通常より1日繰り上がって行われてしまったのである。
 私の知らない間に、だ。
 コンスタンツェによれば、葬儀の模様は次のようなものであったらしい。

 6日の午後2時半ごろ、彼の遺体はラウエンシュタイン小路(カッセ)のアパートから運び出された。
 棺は数人の担ぎ手によって、9年前に二人が挙式を挙げた、見上げるような、おそらくは当時は世界一の高さがあったろう尖塔のある聖シュテファン大聖堂の北側にある小さな礼拝堂に運ばれ、最後の祝福を受けたのだ。棺の中のヴォルフィーは、フリーメーソン式の黒い死装束を身につけられていた。
 遺体そのものは、腐敗が著しく、その為、礼拝堂の外での葬儀が行われたと聞かされたという。
 この時の参列者も、聞くところによると、親族からは、妻コンスタンツェの一家の三姉妹とその母、つまりは、長女のヨーゼファーと夫のホーファ、次女のアロイジアとその夫ランゲ、それに末女のゾフィー、ヴォルフィーにとっては義母となるツェッツィーリア、そして、スヴィーチン男爵サリエリ、弟子のジュースマイヤー、聖シュテファン教会楽長のローザーオルスラー、それにヨーゼフ・ダイナー、主治医のクロセットら、少数の会葬者のみであったらしい。これは、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの幅広い交流関係、その支援者たちの数からすれば、あまりに少なすぎた。
 おそらくこれも、私同様、何の予告も無く突然繰り上がって行われた葬礼に、参加できなかった人たちが多かったことが原因だったと、私は思うのだ。
 ずっと後になって、カール・ベーアとかいうヴォルフィーの死因を解明しようとした歯医者は、この時の参列者と勝手に特定していて、私の一座のゲルクとシャックがこの中にいたとしているが、そんな事実はない。
 ともかくヴォルフィーは、礼拝堂で祝福を受けた後、その会葬者と共に大聖堂に入ってカソリック式の葬儀を受けた。そしてまた外に出ると、霊柩馬車に乗せられて、ウィーン市街から一時間以上は歩かねばならない、聖マルクス墓地に運ばれ、そこに埋葬されたらしいのだ。

 聞くところによると、とか、らしい、という言葉が多いのは、実は未亡人のコンスタンツェもなぜかこの葬儀に参加していなかったからである。だから未亡人も、聞かされた話を私に聞かせた、ということになるからだ。
 しかも未亡人が、スヴィーチン男爵やサリエリに問いただしたところ、誰も聖マルクス墓地までは参列しなかったというのだ。
 これはなんとも不可解な話だ。
 妹のゾフィーや母ツェッツィーリアたち親族も、スヴィーチンたちの口車にのせられて、誰ひとりとして、霊柩馬車の後を追うことをしなかったというのだ。

 聖マルクス墓地へ向かったのは、スヴィーチン、サリエリ、ローザー、クロセットたちだったという。これはつまり、フリーメーソンの会員たちだけが、埋葬に立合ったというということを意味している。
 そこでヴォルフィーは、フリーメーソン式の、最後の秘密の秘葬が行われたというわけだ。

 ここで私は、このことを強調しておく。
 ヴォルフィーは、いや、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、敬虔なカトリック信者としてではなく、フリーメーソンの団員として死んだことになっている、ということだ。
 コンスタンツェは後日、聖マルクス墓地を訪れ、墓堀人夫を捕まえて、夫の墓の所在を聞いたが、その時の人夫はもう辞めてしまっていて、わからない、と首を横に振られたのだという。
 したがって、未亡人はおろか、誰にもヴォルフィーの埋葬された場所が、わからない、という奇妙なことが起こったのだ。

 なんだって? コンスタンツェはモーツァルトの死後、17年たって初めて聖マルクス墓地に参拝しに来た悪妻だと伝わっている?
 そんなことを信じているのかね。

 ともかくだ、これらの全てがあり得ないことなのだ。あってもならない。
 後世の学者や研究者たちは、当時の庶民の葬儀はそんなものだったと言っているそうじゃないか。冗談ではない。
 ヴォルフィーの死は、確かに若く、早すぎたものではあったが、決して彼は無名であったわけではない。それどころか、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは確実に、ウィーンでは最高の音楽家であったのだ!
 彼の死は、音楽界にとっても、社交界においても、これは大事件だったのである。
 だから、何度も言うが、これは妙なことなのだ。

 例えば、ヴォルフィーが死ぬ4年前に、クリストフ・グルックが死んでいる。その名を諸君はご存知だろうか。
 グルックは、年はとっていたが、ヴォルフィーなんかの足元にもおよばない、平凡なオペラ作曲家であった。それなのにグルックは、国葬で送られたのだ!

 エステルハージー家で、永い間召使をやっていた、ヨーゼフ・ハイドンも、第一等の葬儀で送られ、ちゃんと墓石も存在している。
 かく言う私が死んだときでさえ、壮大に劇団葬が執り行われ、ヴォルフィーが作曲した『レクイエム』が演奏され、みんなで合唱してくれたというのに!

 後世の学者や研究者たちに断言しておこう。
 ヴォルフィーは、意図的に、最下級の葬儀によって、その死因と遺体が隠蔽されたのだ。
 世は、ヨーゼフ皇帝陛下の時代だったのだ。
 ヨーゼフ皇帝勅令には、こうあった。
 「葬儀の等級選択は地位の上下によらず各人自由である」と。

 すると、あのようなヴォルフィーの葬儀を取り仕切った、これは葬儀委員長の判断だったということになる。

 では、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの死の謎のカギを握る葬儀委員長は、一体誰だったのか?
 これが重要な、モーツァルトの死因の謎を解く要因となろう。
 とにもかくにも、今もっての事実は、偉大なモーツァルトの墓が、どこにあるのかを、誰も知らないわけである。もしわかったならば、せめて誰かに、記念碑付きの墓標でも立ててやってもらいたいものだ。

 奇妙というと、この葬儀そのものが奇妙であった。

 第一に、先ほどから私が問題視しているように、この葬儀そのものが、ウィーン市の規定に反していたのである。
 奇妙というと、この葬儀そのものがまた奇妙だったのである。
 まず、ウィーン市の役所の規定によれば、死者は48時間以内に埋葬することは禁止されていたのだ。にもかかわらず、彼の埋葬は突然、1日繰り上がって、翌日の午後に行われたのだ。
 これについては、理由が作られた。
 モーツァルトの死体の腐乱が激しく、ひどい異臭を放っていたので、特例とされたというのだ。これが本当のことだったとしても、規定を覆えすからには、そこに何か大きな力が働いたとみるべきだろう。モーツァルトの葬儀に関係した、誰かの力である。
 そこに、規定を覆してでも、一刻も早い葬儀の執り行ないをしなければならないとする、なにか重大な理由があったということなのだ。

 ただ、考えてほしいのは、ヴォルフィーの死の原因が、主治医の下した急性粟粒疹熱であり、それが当時ウィーンで流行っていた病気だというのなら、その同じ病気で死んだ人は、他にもウィーンにごまんといたはずだ。しかし、そんな事実はなかったのだ。規定を覆して埋葬された者も他にはいない。

 なぜ、彼だけが、ここで特別扱いされたのであろうか。

 第2の奇妙さは、妻のコンスタンツェと2人の幼い息子、それに実の姉、ナンネルまでもが葬儀に参加していなかったということだ。
 なぜ、コンスタンツェもナンネルも葬儀に出なかったのだろうか。

 コンスタンツェの場合は、夫の死にショックを受けて、とてもそんな状態ではなかったらしい、と噂されていたし、それより他は考えようがなかった。だが、コンスタンツェは心神喪失の為、葬儀に出られなかったと報告したのは、誰あろうスヴィーチン男爵であったのだ。
 このスヴィーチン男爵こそが、ヴォルフィーの葬儀委員長だったのだ。
 ここに、胡散臭さを感じないわけにはいかないだろう。
 思わないか。
 コンスタンツェは何かの妨害を受けて、葬儀には出席できなかったのに違いない。そう、私がそうであったように!
 これはこういうことだ。
 埋葬規定を覆し、未亡人を排除することによって、彼らはヴォルフィーの遺体そのものを完全に隠匿することに、まんまと成功するのだから。

 そんな彼らは後日、ある集会で団員たちを集めて、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの為の追悼集会を開き、こんな章句を残した。
 「彼、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、われわれ結社の熱心なメンバーであった。同志愛の持ち主で、気質は穏やかな、徳行と慈愛の信奉者、同志の自らの才能で扶助できるときは、いつも心底から喜んでいた。これが彼の性格の特徴であった」
 この演説をその団員たちの前でしたのも、スヴィーチン男爵だったのだ。

 また、ヴォルフィーの葬儀の時、会葬者が最後の墓地まで立ち会えなかった原因として、当日12月6日は、雨、嵐の為に、やむを得ず途中で立ち帰り、遺体の埋葬を確認できなかった、とする供述があるが、これもみな大嘘である。
 私が思うに、会葬者の誰かは、聖マルクス墓地まで行って、彼の遺体が確実に処分されたところを見届け、その時の墓堀にと夫が誰だか知っていたはずだ。買収の為に。

 彼らは巧妙な嘘をつく人種であることは明らかだ。
 当日のことは、私は覚えている。
 気温こそ低かったが、太陽も出ていて、穏やかな日だった。
 風も、全くない日だった。
 気象台の記録が、今も残っているはずだ。
 嵐があったのは、翌日7日の夕方のことだった
 こうして希代の音楽家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの死は、得体のしれない陰謀により、隠蔽されてしまったのである。

 それを裏付ける、モーツァルト夫人の証言でもって、もう少しこの話を続けようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※色が違う箇所がありますが、意味意図はありません。

 

 

 


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