シリーズ践祚大嘗祭・3(2019年6月号)


 

WEBマガジン『神秘之國、日本

聖徳太子と秦氏と践祚大嘗祭 〜天皇の謎を追う〜

その三

★天皇のはじまり

 


 


 

 

 

 

聖徳太子と秦氏と践祚大嘗祭
〜天皇の謎を追う〜

その三

★天皇のはじまり

 

 

 今年即位された天皇陛下は、126代目となる。初代天皇から、途絶えることなく現在まで続いているというわけである。

 初代天皇は、神武天皇であるとされる。もちろんこれは伝説的な存在にすぎないとする専門家が多数を占める。つまりこれは、神話であって歴史的事実ではないというわけだ。
 『古事記』『日本書紀』には神代のことを伝え、神武天皇はその神々の子孫であるとしている。
 それによると、神武天皇は、葦原中津国を平定し、辛酉(かのととり)元旦(旧暦なので現在の211)に、橿原宮で即位したとある。この辛酉とは西暦に直すといつなのか、と計算した人がいたようだ。辛酉とは干支である。

 干支といえば、子丑寅卯辰巳午……、と十二支があることはご存知であろう。
 昔は、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸という十支をここに合わせ、組み合わせて年を数えた。
 例えば、慶応4年に薩摩、長州、土佐藩を中核とした新政府軍と旧幕府勢力と奥羽越列藩同盟が戦った戦争を戊辰(ぼしん)戦争というのは、慶応4年(1868)の干支が、十支の戊と十二支の申が合わさった、戊辰の年に行われた戦争であるというわけである。
 あるいは、大正13年(1924)は甲子年であり、その年に竣工式が行われた野球場が、甲子園球場と名付けられたという経緯がある。
 このように、十二支、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥と、十干(じっかん)、甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸の組み合わせは60周年毎に繰り返されることになる。

 すると、『書記』に、推古天皇9年が辛酉年と書かれてある。神武天皇の即位も辛酉と書かれてある。だから、推古9年を起点として、干支の60年毎から計算をすると、神武天皇が橿原宮で即位したという年は、西暦に変換すると、紀元前660年という数字が出されたというのだ。

 我が天皇の初代は、紀元前660年に即位をした、ということである。
 ただし、このように干支で年を読むという行為は、推古天皇の時代からとされ、神武即位が辛酉年であるということ事態が、後代に設定されたとみるべきであろう。
 しかし、なぜ推古天皇の時代の辛酉を起点としたのかと言うと、推古16年に、隋帝国の遣い裴世清が来朝していて、そのことが『書記』に記載されるのであるが、同時にこのことは『隋書倭国伝』にも記載され、そこに記される大業4年が西暦608年と検証されるからである。

 古代の中国では辛酉は、革命が起こって王朝が滅び、天命が改まる年とされ、それを辛酉革命といったのである。推古天皇9年がその年であり、この辛酉が過去にわたって、21回繰り返されたこの年に、神武天皇が即位した、という正当性を持たせての計算方法であったと考えられよう。つまり、さして根拠がない数字だともいえるわけだ。

 この紀元前660年というこの数字は、明治になって計算されたという説や、江戸時代後期の国学者、藤田東湖、あるいは歴史学者の那珂通世(なかみちよ)によるものである、というものもあるが、どうやら戦国時代に日本に来ていたイエズス会の宣教師たちが算出したのではないかと、私は思っている。
 なぜならこの数字は、江戸幕府が開府してわずか6年、慶長14年の台風で日本に漂着したフィリピンの臨時総監ロドリゴというスペイン人が、後に記録した『日本見聞録』に「神武天皇という名の最初の王が君主制を始め、統治をしたのは、主キリスト誕生に先立つこと663年も前、ローマ創建から86年後だということである」と記されているからである。
 
また、おそらく日本のことを初めて本格的に紹介した本を書いたドイツ人、ケンペルという医者も『日本誌~The Histry of Japan(最初の出版は1727年、ロンドン)』にも、この数字は記されているのだ。
 紀元前から継承される王朝に、きっと彼らは驚き、書き記したのであろう。
 だが、あくまでこれは神話としての天皇である。
 では、神話ではなく、リアルな天皇の実在性は、どこまで遡れるのであろう。
 まずは、歴史学上での考察である。

 歴史学は文献学である。したがってより信憑性のある史料を採択するわけである。

 『日本書紀』によると、天武天皇が681年、「飛鳥浄御原令(あすか・きよみはらりょう)」を発令し、このとき天皇号を使ったとしている。
 ただ、その文献は残されておらず、令(法令法)だけで、律(刑法)を伴わないものであった。天武天皇の死後、「飛鳥浄御原令」を元にして、律も設けた「大宝律令」(701)の公式令詔書式の中で規定された「明神御宇日本天皇(あきつつかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)」という文字が、文献として確実に天皇の記録が確認できるものであるとする。ここに日本(やまと)という文字も確認できることとなる。
 これを裏書きするものが、飛鳥近辺池工房遺跡から出土した木簡であった。

 天皇と、丁丑年十二月の干支、という文字が墨書きされているのが発見され、丁丑は、天武天皇6年(668)のことからして、天武天皇の時代には、天皇号が使用されていたことは、間違いない、ということになるわけだ。ということは、少なく見積もって、天皇号が使われ、日本という国号となってからは、1350年は経つということになる。
 「大宝律令」が発布された翌年、大宝2年(702)に遣唐使が中国に派遣され、当時の女帝、則天武后に国号が改まったことを報告したという記録がある。

 一つは、『新唐書』にある。

 「後、ようやく夏(か)の音を習いて倭の名を悪み、あらためて日本と号(なづ)く。使者自ら言ふ、国、日の出る処に近ければ、以て名となす、と。あるいは云ふ。日本は小国にして、倭のあはすところとなるが故にその号を冒(わか)す、と」
 つまり、倭の名を嫌って、日本号としたというのである。そしてその国号としたのは、日の出る処に近いからである、と。

 日本はそれまで、倭という国であった。
 しかしそれは、当時の中国の人たちがそう言っていたのである。
 倭という国のことは、すでに一世紀に書かれた『漢書』地理誌に記されている。

 「楽浪の海の中に倭人が住んでいて、分かれて百余の国を作り、毎年使者を送り(我が皇帝に)献見している」

 楽浪とは朝鮮半島の北部、今の平壌に近い場所にある漢帝国の支配下にあった郡のことである。続いて『後漢書』東夷伝に記される。

 「倭は、漢の東南方の大海の中にあって、山の多い島に居住していて、すべてで百余国。使者は大夫と自称した。奴国は倭の最南端の国である。光武帝は印綬を与えた。安帝の永初元年、倭国王、帥升(すいしょう)が生口(せいこう)160人を献上して、皇帝の接見を願い求めた」

 生口とは奴隷、奴婢のことであり、ここに出る帥升が初めて記録として現れる倭人の個人名である。永3年、107年のことだという。

 古代の世界を見る場合、我々が持つ価値観や常識はまず捨てるべきであろう。国境線は今のように明確ではないし、今の国境線もあてはまらない。その国も今の国とは全然違う。そしてその地形も随分と違うのだ。

 『漢書』地理誌、『後漢書』東夷伝によると、倭人が活動していたのは、朝鮮半島の楽浪、つまり朝鮮半島の付け根のあたりから黄海のほぼ全域、中国東南部、済州島、沖ノ島、津島を含んで奴国(北九州)がその最南端であるとする。そうすると、彼らにとって倭人は日本列島に住む人たちというよりは、海族であったと考えられよう。
 となれば、彼らに国境線という概念は無い。海を自由に行き来したのだ。海に国境線などないのだ。
 そんな海族を中国では、倭人と呼んだのである。
 一説によれば倭人の勢力は、百越、つまりは中国南部からベトナムまで及んだともある。
 ただ、これは当時の中国が把握していた日本の姿であり、まだまだ別の倭人たちもいたことだろう。

 なぜ、彼らが、倭、わ、と呼ばれたのかは判然としない。わ、は和食、和室、和風の和と、今は和の字があてられるが、もともとこれは、倭の名残であるわけだ。

 倭、と呼ばれた海人たちは、自らも倭と称した。倭の五王も倭国王と称していた。
 それを倭人たちは、嫌になったという。漢字というものを知った倭人たちは、ここでどうも倭という文字には、小さく卑しいという意味があるようだと気づいたのだろう。
 だから、わ、という音よりも、倭という文字を嫌ったのだ。なぜなら、やがて倭国に中央政権が出来上がり、それは、大和と称したからだ。大いなる倭のことである。

 ただしその読みは、やまと、である。

 やま、は山のあるところ、山の入り口という意味で、山は古来、神聖なる場所、神が降臨するところをさしたのである。
 海族である倭人たちは、陸に上がると、山に神を求めたようだ。
 と、は処(ところ)という意味である。神のいる処、これが大いなる倭である。だが、倭の文字を嫌って、大倭ではなく、大和としたのである。

 実はそれまでは、やまと、は大倭国、大庸徳という字をあてたこともあったようだが、平安年間に、大和と定まったようである。
 そして、則天武后に、日本と国号を改めたことを報告したが、日本の読みは、やはり、やまと、であったという。神のいる処、という読み、漢字では、それは日の出る場所である、つまり太陽信仰の国であることを、宣言したのである。

 その君主が、天皇であるとした。それが当時の日本の国体であったのだ。

 大宝2年に第7次遣唐使を遣わせたのは、文武天皇である。

 するとこのころに、日本という国号と日本国皇帝としての天皇が、確実に確立していたといえよう。
 倭の君主らしき者は、それまで大王(おおきみ)と自称していた。倭の五王がそうであった。しかし、王では、皇帝に朝貢する臣下になってしまう。
 だから、天皇と称することで日本の君主は、中国皇帝と同等であると宣言したのである。 

 ここで、皇帝というものについて考えてみよう。
 皇帝という称号をはじめて名乗ったのは、秦始皇帝であった。

 始皇帝が誕生する以前の時代(紀元前3世紀までの頃)の中国は、天下に王はただ一人であるはずが、春秋、戦国の時代から諸国に王が並び立っていた。
 これを統一した秦王が、王より上の尊称を造り、自ら秦始皇帝と名乗ったのである。皇帝とは、神聖、神君であり、天の神を意味した。
 天上にあって世界を支配するものである。
 そして始皇帝以降は、唯一の王は皇帝と名乗るようになった。

 古代中国の儒家官僚たちは、大一(太一ともいう)が宇宙の根源だとした。
 天地、陰陽、四時、鬼神は大一が分化して生じたものであり、君臣、親子、夫婦、尊卑などの差異も、大一から生じると考えた。
 とすれば、すべての問題の起因は大一にあることになる。
 そうなると問題が起こると、その解決ができるのは、大一が坐する天と人間界である地を結ぶことが出来る聖人でなければならないと考えたのである。聖人の行う祭祀のみが、問題を解決させ、世に安定と秩序をもたらすことが出来るのだ。
 聖人とは天子である。天子とは皇帝である。

 もともと天子という概念は、周の時代にあったもので、天の神の権威の元に君臨する王のことであったが、始皇帝は、天子も周王も全部否定し、皇帝は神そのものだとした。
 しかし、漢の時代となると、天子の概念も復活し、漢の皇帝は、天子でもあるという考え方となったのである。このころから、皇帝は、天にいる神から命を受け、天下を統治するという意味合いとなったわけである。

 天皇が皇帝と同等であるとすると、やはり、天の神から命を受け、天下を統一するという神威、神聖がなければならないということになる。皇帝=天皇であるともいえる。

 実は、天皇は皇帝であると、はっきり規定されていたという事実がある。
 それは757年、大宝律令に続く律令として施行された「養老律令」の天皇条に記されている。

 そこには、「祭祀においては天子、詔書においては天皇、華夷(外交)において皇帝」と定めてあるのだ。
 この法令は平安時代中期になるとほとんど形骸化したが、廃止されることはなく、明治維新まで存続していたのである。
 そして明治になると、天皇は、大日本帝国皇帝と名乗ってもいた。

 となれば、疑問がわく。

 本来皇帝は、天下に唯一でなければならない。それが前提である。

 明治維新のころの中国も、清帝国として皇帝を頂いていた。
 中国は、清帝国の滅亡と共産主義による中華人民共和国となったここ、百数十年は弱体化したが、長い間、世界に冠たる超大国であった。自らも、世界の中心にあるという中華思想を持っていた国である。
 そして過去において、侵略、派兵を繰り返し、周りの国を従属させていたのである。その超大国からみれば、小さな島国でしかないわが国に皇帝がいるということを、なぜ許していたのかと言うことである。
 東アジアにおいて、皇帝を戴いた国は、中国と日本だけである。

 ヨーロッパにはエンペラー(EMPEROR)が存在し、しばしば皇帝と訳されたが、エンペラーは、ローマ皇帝の後継者としての称号であり、神である皇帝とはまた別のものであった。
 つまり天皇も皇帝であるならば、その解釈として、神聖にして、神君であり、天の神でなければ天皇たりえないということになる。即位をしただけでは真の天皇になれないというのは、それであろう。
 だから、神話とつながる万世一系が用意されたのである。

 では、それを用意したのは誰か。つまり、日本に天皇という神秘なる君主を抱かせたのは誰かということを知りたくなる。

 それは歴史上、最初に天皇を称した天武、あるいは文武天皇であったのだろうか。

 「我は天皇なり。我は天子なり」と宣言をして、いきなり神威を持ち、神聖を保てるものなのだろうか。そして、践祚大嘗祭なる神秘の大祭をはじめたのも、彼らなのであろうか。
 次回はそこを考察してみたい。 

 

 

 

 

 

 

 

 

※色が違う箇所がありますが、意味意図はありません。

 


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