『モーツァルトの血痕』 辞典
エマヌエル・シカネーダー
(Emanuel Schikaneder)
フィリップ・リヒターによる銅版画にもとづく肖像画。
(1751~1812)本書の主人公であり、日本の諸君を『魔笛』の謎へと誘う、語り部でもあり、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの親友でもあり、脚本家、演出家、役者、支配人と様々な顔を持つ、エンターテイナーでもある。
詳しくは第三章にて語られる事だろう……。
『モーツァルトの血痕』 辞典
パパゲーノ
イグナーツ・アルベルティ作。パパゲーノの銅版画。
パパゲーノを演じるシカネーダー。
鳥の恰好をした鳥刺し職人で、鳥籠を背負っている姿で現れる。
『モーツァルトの血痕』 辞典
フリーメーソン
フリーメーソンのシンボルマーク。
イギリスで発生し、世界中に会員同士の親睦を目的とした友愛団体。この組織を抜きにしては『魔笛』も、ヴォルフィーの死についても語れない…。これもまた、これから語られていくだろう……。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
(Wolfgang Amadeus Mozart)
画像は死後描かれた油絵の肖像画。
バルバラ・クラフトがヨーゼフ・ゾンライトナーの作曲家ギャラリーのために1819年に描いたもの。
(1756年~1791年)神童と呼ばれた説明不要の天才音楽家。本書のもう一人の主人公である。その短い生涯で数々の名作を生み出し、ウィーン古典派三大巨匠の一人とされ、もちろん『魔笛』の作曲家でもある。
彼の死については数々の謎に満ちているが、それもこれから語られるのだ……。
『モーツァルトの血痕』 辞典
『魔笛』
ヴィーデンの劇場で行われた『魔笛』初演時のポスター。
(ドイツ名 Die Zauberflote) 1791年、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトにより作曲されたジングシュピール(歌芝居。オペラとの違いは三章にて解説)。現在ではオペラとして認知、分類されている。
台本はエマヌエル・シカネーダーが書いた。
モーツァルトが生涯の最後に完成させた傑作オペラであり、様々なメッセージ、象徴が封印された謎に満ちたオペラでもある。未だに世界中で上演されているこの『魔笛』の謎はこれから語られるであろう。
『モーツァルトの血痕』 辞典
私の寝室
当時シカネーダーは、一座の人々と一緒に、フライハウス劇場の中で寝泊まりしていた。
シカネーダーの劇場は正確にはヴィーデン劇場であるが、フライハウス劇場ともよばれた。フライハウスというのは、ヴィーデン劇場の周りにごちゃごちゃと建つ一種の集合住宅のことである。
シカネーダーは劇団員に厳格な規律を求め、一座の役者のほとんどが、この広いフライハウスに肩を寄せ合って住んでいた。
シカネーダーは、第5棟の第23階段の二階に住んでいた。
フライハウス劇場についての詳細は、第2章「コンスタンツェの告白」の、フライハウス劇場の項にて、解説する。
『モーツァルトの血痕』 辞典
モーツァルトのアパート
ラウエンシュタイン小路(カッセ)のモーツァルトの家周辺を描いたとされる画。
モーツァルト邸の見取り図
モーツァルトのカイザーハウス(アパート)
『モーツァルトの血痕』 辞典
コンスタンツェ・モーツァルト
コンスタンツェ・モーツァルト(Constanze Mozart)の肖像画。
ジョセフ・ランゲ制作。(1762~1842)
コンスタンツェ・モーツァルト。旧姓はウェーバー。
モーツァルトの妻である。詳しくは本章と二章で語られる。
なお、彼女の姉、アロイジアはモーツァルトが熱愛したことで知られる。
『モーツァルトの血痕』 辞典
急性粟粒疹熱(ミリアリア)
聖シュテファン大聖堂の死者名簿には、以下のように記される。
※聖シュテファン大聖堂事務局死者台帳
1791年12月5日
(町)970番地。
称号 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト氏。皇室王室付き楽長兼宮廷室内作曲家
(カソリック) ○
(男性) ○
(病気と死亡種類) 急性粟粒疹【ぞくりゅうしん】熱
(場所、埋葬場所、埋葬日) 同上 12月6日 聖マルクス聖地
※聖シュテファン大聖堂教区過去帳
12月6日
モーツァル 称号ヴォルフガング・アマテーウス・モーツァルト氏、オーストリア皇王室楽長兼宮廷作曲家。
第三等 ラウエンシュタイン小路【カッセ】クラインカイザーシュタイン館
970番地。検死結果は急性粟粒疹【ぞくりゅうしん】熱。
36歳。
教区聖堂 聖マルコス墓地 聖シュテファン/p<>
料金 4グルデン36クロイツァー
8グルデン 4グルデン20クロイツァー
56クロイツァー
支払済み 馬車3グルデン
死亡台帳は、海老沢敏、飯島智子共訳/ ダルヒョウ、ドゥーダ、ケルナー共著『モーツァルトの毒殺(Ⅰ)より引用。
過去帳は、海老沢敏・高橋英郎/編訳 『モーツァルト書簡全集Ⅵ』より引用。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ゾフィーの手紙
モーツァルトの妻の妹ゾフィー・ヴェーバーが、182年4月7日、モーツァルトの未亡人、コンスタンツェの第二の夫となったゲオルク・ニーコラウス・フォン・ニッセン宛に書いた手紙は、モーツァルトの最後を記した貴重な文献として、しばしモーツァルト研究に引用されるところである。
『モーツァルト書簡全集Ⅵ』(編訳者・海老沢敏・高橋英郎)に掲載される全文を取り上げてみる。
「ところで、モーツァルトの生涯の最後についてですが、モーツァルトは今は亡き私たちのお母さんがだんだん好きになっていきました。お母さんも彼が好きになりました。そこでモーツァルトは、(母と私とが《金鋤館【ツム・ゴルデネン・ブフルーク】》に住んでいた)ヴィーデンへ、しょっちゅう小袋を小脇に抱えて、急いで走るようにやって来るのでした。その小袋のなかにはコーヒーと砂糖が入っていましたが、それを私たちの母に渡して言うのでした。《ほら、お母さん、ちょっとしたおやつですよ》。これが彼女を子供のように喜ばせました。こんなことがしょっちゅうありました。モーツァルトは決して手ぶらではやって来ませんでした。
さて、モーツァルトが病気になったとき、私たちは二人で彼に前から着られる夜着を作ってあげましたが、それというのも腫傷で体を曲げることができなかったからです。それに彼の病気がどれほど重いものなのか私たちには分からなかったので、彼のために綿入れの寝間着も作って挙げました(でもその布地はすべて彼の優しい妻、私の最愛の姉が私たちにくれたものでした)が、そうすれば起き上がった時にうまく世話してもらえるからでした。そんなふうにして、私たちは熱心に彼を見舞ってあげたのです。彼もまた寝間着にはたいへん喜んでくれました。私は毎日町へ行って彼を見舞っていましたが、いちど土曜日に入って行くと、モーツァルトは私に言うのでした。《ところでゾフィー、ママに言ってくれないか、僕はとても調子がいいので、ママの霊名の祝日のオクターヴェのうちにはお祝いしに行くからってね》。母にこんなに喜ばしい知らせをもって行ってあげられるなんて、母にはずっとそんな知らせはほとんど期待できなかったので、私は母を安心させてあげようと急いで家に帰りました。
次の日は日曜日でした。私はまだ若くて、白状しますと見栄っぱりでした。それにおめかしが好きでした。おめかしをしても、歩いて郊外市から市内に行くのは嫌でした。しかし馬車ではお金がかかります。そこで私は母に言いました。《お母さん、今日はモーツァルトのところには行かないわ。昨日はとても具合が良かったから、今日はもっと良くなっていることでしょう。一日くらい、なんてことないわ。》すると母が言いました。《ところでねえ、おまえ。コーヒーを一杯いれてね。そのあとで、おまえがどうしなければいけないのか言うことにするわ。》母は私を家に置いておきたいらしいのです。というのは、お姉様もご存知のように、私はいつでも母のそばにいなければならなかったからです。そこで私は台所に行きました。もう火は残っていませんでした。私は明かりをつけて、火をおこさなければなりませんでした。モーツァルトのことが、でも忘れられませんでした。コーヒーが出来ましたし、明かりはまだ燃えていました。そこで私は、そんなにたくさんの明かりを使って、明かりをなんて浪費してしまったんだろうと思いました。明かりはまだ派手に燃え上がっていました。今度は私は明かりにじっと見入りながら考えました。モーツァルトがどうしているのか、私はやはり知りたいんだと。そしてそう考えて明かりに見入ると、それが消えたのです。それもまったく燃えていなかったようにすっかり消えてしまったのです。太い芯には、少しの火の粉も残っていませんでした。風がまったくなかったことは誓って言えます。私は身ぶるいがして、母のところに走って行ってそのことを話しました。母は言いました。《とにかく、急いでお出掛け。すぐに知らせてくれるんだよ。彼がどんな具合なのか。でも長いあいだいるんじゃないよ。》私はできるかぎり急いで行きました。
ああ、神様。なかば取り乱しながら、それでもなんとか気を落ち着けようとしているお姉様が私を出迎えて、次のように言ったとき、私はどんなにびっくりしたことでしょう。《あ、ゾフィー、来てくれてよかった。ゆうべはとっても悪かったので、今日までもうとても持たないって思ったほどなの。今日は私と一緒にいてちょうだい。だって、今日もあのひとがあんなになったら、今晩にも死んでしまうわ。ちょっとあのひとのところへ行って、具合を見てね。》私は気を落ち着けようとして彼のベッドのそばへ行くと、すぐに彼は私に呼びかけるのでした。《ああ、よかった、ゾフィー。ここにいてよ。今夜はここに残っていてくれなくっちゃあいけない。きみはぼくが死ぬのを見てくれなければ。》私は気を強くもって、そんな話はやめさせようとしましたが、彼は万事につけ、私に答えを返すのでした。《舌の上にはもう死人の味がするんだ。きみがここに残っててくれないなら、いったい誰がぼくの最愛のコンスタンツェの助けになってくれるんだい。》《いいわよ、モーツァルトさん。ただ、いちどお母さんのところへ行って、あなたがこの私を今日はここに置きたがっているって言っておきたいの。さもないと、悪いことが起こったにちがいないって思うでしょうから。》《そうだね。そうしなさい。でもすぐに戻ってくるんだよ。》
──ああ、私はそのときどんな気持ちだったことでしょう。かわいそうなお姉さんは私の後を追ってきて、後生だから聖ペテロ教会の司祭様たちのところへ行って、司祭様に一人、偶然のようにして来てほしいと頼んでみてくれと言うのでした。私はそうしましたが、ただあの方たちは長いこと拒んでおられ、そんな人でなしの司祭をそうするように決心させるのに大変な骨折りをしたのです。──そこで私は不安でたまらなくなり、私を待っている母のところに飛んで行きました。もう暗くなっていました。かわいそうな母はどんなに驚いたことでしょう。私は母を説きすすめて、いちばん上の姉、いまは亡きホーファー夫人のところで夜を明かすように言い、実際にそうなりましたが、私はまたできるかぎり急いで、すっかり悲観しきっているお姉さんのところへ行きました。
モーツァルトのベッドのそばにはジュースマイヤーがいました。それに掛布団の上には有名な『レクイエム』が置かれ、モーツァルトが、自分の考えはこうこうで、自分が死んだらそれを仕上げてくれるようにと、彼に説明していました。さらにモーツァルトは妻に、早朝アルブレヒツベルガーに自分の死を報告するまでは、それを秘密にしておくようにと頼みました。というのは、この人に神とこの世に対する勧めがゆだねられているからです。
医者のグロセット(クロセット)は長いこと探して、やっと劇場で見つかりました。でも芝居が終わるのを待たねばなりませんでした。──それからやって来て、燃えるような頭に冷罨保【れいあんぽう】を処方しましたが、これが彼に大きなショックを与え、息を引き取るまでもう意識は戻りませんでした。彼の臨終は、まだまるで口で持って自分の『レクイエム』のティンパニを表そうとでもしているかのようでして、私にはいまでもそれが聞こえてきます。
美術陳列館からミュラーがすぐにやって来て、死んだ彼の青ざめた顔を石膏に形どりました。
彼の忠実な妻が際限りもなくやつれ切って、がっくりとくずおれ、全能なる神に助けを求めている様子は、お兄様、筆紙には尽くしがたいものです。私がどんなに頼んでも、彼から離れることが出来ませんでした。お姉さんの苦しみがなおいっそう募ったとすれば、そのぞっとするような夜の次の日に、人びとが群れをなして家の前を通り過ぎ、彼のために声高に泣き、そして叫んだことで募ったにちがいありません。
私はモーツァルトが憤慨したり、いわんや激怒したところを生涯見たことはございません」
ニッセンはモーツァルトの伝記を記した最初の人として知られていて、この手紙はそのときの証言を得るために、ゾフィーが書き送ったものとされる。
そのニッセンがコンスタンツェらから収集した一連のメモの中に、自伝に使われなかった次のようなメモがある。モーツァルトが死の床にあって、苦しむ様子が目に浮かぶような光景が書かれている。
「彼の死は一般の人々の注目を集めた。人々はアパートメントの窓の前の道端に佇み、ハンカチを振った。モーツァルトは医者のクロセットが何と言ったのか、妻に尋ねた。彼女は気休め的な答えをした。彼は言い返して、それは本当でないと言い、とても意気消沈して、君と子供たちの世話をできるという今になって、ぼくは死ぬんだ。ああ、君の世話をせずにもう死んでしまうんだ、と言った。
彼は突然吐き始めた──口から弧を描いて吐き出された──茶褐色だった。そして彼は死んだ。」
(引用 H・C・ロビンズ・ランドン著/海老沢敏訳『モーツァルト最後の年』
モーツァルトのデスマスク。
ゾフィーの手紙
「美術陳列館からミュラーがすぐにやって来て、死んだ彼の青ざめた顔を石膏に形どりました」
『モーツァルトの血痕』 辞典
ゲオルク・ニコラウス・フォン・ニッセン
”ゲオルク・ニーコラウス・(フォン)ニッセン(Georg Nikolaus von Nissen)の肖像画。
死後ジェーグマンによって描かれた。
(1762~1826)デンマークの外交官、伝記作家である。本文中でも触れているとおり、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの伝記を最初に記した人物であり、その伝記は今日でも多くの音楽史学者が参考にしている。
ハデスレウに生まれ、1792年からデンマーク国外へ勤務、翌年には臨時代理大使としてウィーンに赴任し、1797年、コンスタンツェと知り合った。1809年に結婚したが、子供をもうけることはなかった。コンスタンツェはニッセンと知り合った頃から、ヴォルガングの曲の版権を活用し、多大な借金を完済し、ニッセンはその際、出版会社への交渉を担うなど、大きく貢献した。
1812年、家族共々デンマークへ帰国し、1820年に外交官を退官。ヴォルガングの伝記を著すためにザルツブルクへ移住した。この頃、ヴォルガングの実姉、マリア・アンナ・モーツァルトから大量のヴォルガング直筆の手紙を提供されている。
1826年、死去。伝記は未完であったが、残されたメモと資料から、ドイツ人医師、ヨハン・ハインリヒ・フォイアスタインがこれを補完し、1892年に完成、発表された。
ニッセンの遺体はザルツブルクの市内の墓地に埋葬され、現在でも公開されている。墓碑には「モーツァルトの未亡人の夫」と刻まれている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
アロイジア・ヴェーバー(Aloisia Weber)
アロイジア・ヴェーバー(Aloisia Weber)の肖像画。
なお、彼女の夫、ランゲは後にモーツァルトとコンスタンツェの肖像画を描いている。
(1760~1839)
マンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘。モーツァルトの妻、コンスタンツェの姉でウェーバー家の次女であり、モーツァルトが熱愛した女性として有名。1777年にマンハイムに訪れたモーツァルトと出会い、モーツァルトは結婚の計画を立てるほどに熱愛するが、父、レオポルド・モーツァルトの猛烈な反対を受けて断念した。その後、モーツァルトはパリを経て、ザルツブルクへと移住し、その頃既に結婚していたアロイジアの妹である、コンスタンツェと結婚することとなる。
アロイジアはウィーンで役者のジョセフ・ランゲと結婚したが、後にモーツァルトの名声が高まると「モーツァルトの愛を拒んだことを後悔している」と述べている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
聖シュテファン大聖堂
聖シュテファン大聖堂外観。
外観はゴシック様式で、内部の祭壇はバロック様式である。
聖シュテファン大聖堂の隣にある十字架小聖堂で、モーツァルトの葬儀が行われた。
12世紀ごろ、殉職者聖シュテファンに捧げるロマネスク形式の地位な教会が、建っていたものを14世紀になって、ハプスブルグ家のルドルフ4世によりゴシック様式として建て替えられたものが、現在の姿の基本となったとされている。
15世紀後半、ウィーン司教区となり、18世紀後半に大司教区へ昇格して、シュテファン大聖堂となった。
聖堂内での音楽会は、カペルマイスター(楽長)が指揮する付属オーケストラと合唱団が中心となるが、モーツァルトは副学長に一時就任していた。
南塔の高さは、137メートル。
北塔の高さは、61メートル。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ジョセフ・ランゲ(Josef Lange)
(1751~1831)
ウィーンのブルグ劇場の俳優を長く勤めていた。
1780年、モーツァルトが片思いをしたアロイジアと結婚し、6人の子供を作った。モーツァルトの未完の肖像画やコンスタンツェの肖像画を残している。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ゾフィー・ウェーバー(Sophie Weber)
(1763~1846)
モーツァルトの最期を看取った女性であるとされる。
モーツァルトは、マンハイムのオラーエン公妃に会うための道中、写譜屋のフリードリーン・ウェーバーと同行したが、そこに付き従っていた次女アイロージアに恋をしたことから、ウェーバー家との関係が出来たのである。
ウェーバー家には、四人の娘がいた。
長女はヨーゼファー(1758~1819)
次女はアイロージア(1760~1839)
三女がモーツァルト夫人となったコンスタンツェ(1762~1839)
四女がゾフィーである。
ゾフィーも歌手を目指すが、アイロージアのような成功ははたせなかったが、モーツァルトにはかわいがられたという。
ゾフィーは後に、シカネーダー一座の歌手、ヤーコブ・ハイデルと結婚する。
ちなみに、アイロージアの夫ジョゼフ・ランゲは画家であり、次のようなモーツァルトの肖像画を残している。
ピアノに向かうモーツァルト。
『モーツァルトの血痕』 辞典
マリア・ツェツィーリア(Maria Zeziria)
(1727~1793)
フランツ・フリードリーンの妻。モーツァルトの義母。
ヨーゼファー、アロイジア、コンスタンツェ、ゾフィーの四姉妹を産んでいる。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ゴットフリート・ベルンハルト・ヴァン・スヴィーチン
(Gottfried Bernhard Freiherr van Swieten)
男爵の肖像画。
(1733~1803)
元プロイセンの外交官。元はウィーン出身で、父親はマリア・テレジアの侍医のゲルトハルト・ウァン・スヴィーチン。ウィーンに戻ってからは、宮廷図書館長官、文部省長官、検閲長官などを歴任。モーツァルト一家とは非常に親密な関係にあり、パトロンの一人だった。ハイドンのオラトリオ『天地創造』『四季』の台本作家としても有名である。また、ベートーヴェンは、交響曲第一番を彼に献呈している。ウィーンで代々音楽を愛好していた貴族であったらしい。
──彼の名はこれからも度々出てくる。ある意味、彼も『魔笛』に深く関わってくる人物でもある……。
『モーツァルトの血痕』 辞典
アントニオ・サリエリ(Antonio Salieri)
(1750~1825)
イタリアのレニャーゴ生まれの作曲家。
1778年より、神聖ローマ帝国皇帝、オーストリア帝国皇帝に仕える宮廷楽長として、ヨーロッパの楽壇の頂点にいた人物である。現在もウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で有名なウィーン楽友教会の黄金ホールの設計にも携わっている。
映画『アマデウス』ではモーツァルトのライバルであり、妨害者など、悪人に仕立て上げられているが、モーツァルトの才能を認めていた人物で、協力者でもあった。しかし一方、妨害があったのも事実で、イタリア人がウィーンの宮廷楽長を長年務めたことによる、ドイツ音楽の擁護派からの誹謗中傷も事実あったことから、当時からサリエリによるモーツァルトの毒殺説は噂されていたようである。
エピソードとしてオペラ『セビリアの理髪師』などで有名なロッシーニから面と向かって「モーツァルトを毒殺したのは本当か」と聞かれ、毅然とした態度で否定したという。
第2章「コンスタンツェの告白」の項に詳しい記事あり。
『モーツァルトの血痕』 辞典
フランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤー
(Franz Xaver Süßmayr)
(1766~ 1803/9/17)
オーストリアの作曲家。
もともとは、サリエリに師事したが、1791年にモーツァルトを補佐して『皇帝ティートの慈悲』『魔笛』などの清書をするうちに、モーツァルト家に通うようになった。
モーツァルトの未完の遺稿だった『レクイエム』を完成されたのは、ジュースマイヤーだったが、ジュースマイヤー版『レクイエム』は度々、モーツァルトらしからないと批判を受け、他の作曲家による改訂版が作成された、現代最も演奏されるのはジュースマスヤー版である。
モーツァルトの晩年は、コンスタンツェとの不倫関係があったのではないかとする説もある。
シカネーダーの依頼によって『モーセ、またはエジプト脱出』『アルカディアの鏡』を作曲。成功をおさめ、1974年よりモーツァルトが望んで得られなかったウィーン宮廷劇場の楽団長となり、30本ほどのオペラ作品を作曲した。
1803年、結核の為37歳で死去。
モーツァルトと同じ、聖マルクス墓地に墓碑もなく埋葬された。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・ゲオルグ・ローザー・フォン・ライター
(Johan Georg Roser von Reiter)
(1740~97)
1786年にモーツァルトの父、レーオポルドの推薦状を得て、大聖堂兼市教区教会楽長に就任し、生涯その職務にいた。完全和声クラヴィーアという鍵盤楽器の発明者として知られる。
(モーツァルト書簡全集Ⅵより)
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨーゼフ・オルスラー(Joseph Orsler)
1772年から1806年まで、ウィーン宮廷楽団のチェリストであった。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨーゼフ・ダイナー(Joseph Dineer)
ケルントナー通り1074番地(現12番地)のレストラン〈金蛇亭〉の給仕。晩年のモーツァルトがよく通ったレストランである。
ダイナーは、モーツァルトの晩年を記した『回想録』なるものを書いている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
トーマス・フランツ・クロセット
(Thomas Franz von Crosset)
(1754~1812)
モーツァルトの臨終に立合った医師。
第2章「コンスタンツェの告白」(前編)の項に詳しい記事あり。
『モーツァルトの血痕』 辞典
カール・ベーア(Carl Bar)
スイスの歯科医。モーツァルトの著名な伝記作家の一人。モーツァルトの死の原因は毒殺ではなく、あくまでリュウマチ性熱で、死の直前に施された瀉血が直接の原因であると主張した。その根拠にはローベス博士の鑑定書があげられているが、この鑑定書こそ、存在し得ないものだという反論もある。著作に『モーツァルトの死』など定ある。
『モーツァルトの血痕』 辞典
クリストフ・ヴィリバルト・グルック
(Christoph Willibald (von) Gluck)
クリストフ・(ヴィリバルト)グルックの肖像画。
ジョゼフ・デュプレシ作。
(1714~1787)
オーストリアとフランスで活躍したドイツ生まれのオペラ作曲家。
本文中では平凡と表され、生前も論議の的となったが、後の歴史には、当時他にはなかった叙唱、朗唱(レチタティーヴォ)を劇的に構成し、演技に割り込まない新たな様式を始め改革者として名を残した。この流麗で劇的な作曲様式は、後のワーグナーにも繋がり、ベルリオーズに影響をあたえたともされる。
バレエ音楽や器楽曲も手がけているが、歌劇『オルフェオとエウリディーチェ』の間奏曲、『精霊たちの踊り』が今日では特に有名。
バイエルンのエラスバッハ(現在のドイツ)に生まれる。生後間もなくボヘミアへ引越し、一八歳の時プラハ大学で音楽と哲学を学ぶ。1741年に最初の歌劇アルタセルセ〉を作曲し、以降、舞台音楽の作曲を多数開始(なお、この時点での作品はまだかなり保守的なイタリア語のオペラ・セリアであった)。1754年にヨーロッパ中を廻り、マリア・テレジアの宮廷楽長となり、ウィーンへと居を移し、滞在中の1761年に作曲したバレエ音楽『ドン・ファン』『オルフェオとエウリディーチェ』を通して、当時技巧が偏重されていたオペラに対し、劇と音楽が融合したオペラを重視し、オペラ改革に取り組んだ。このグルックの考え方の変化は1767年の歌劇『アルチェステ』で頂点をきわめたとされる。
1756年にローマ教皇ベネディクトゥス一四世により、黄金拍車勲章を授与され、これ以降は「騎士グルック」の称号を用いることとなる。
1773年に、音楽教師として仕えていた皇女マリー・アントワネットに従い、パリに移り、同地で『アウリスのイフィゲニア』等を制作するも、評論家の意見は、グルックの新様式派、ニコロ・ピッチンニを評価する伝統派に二分する。グルックは後にピッチンニが同じ台本の作曲を依頼されたと知ると、それまで書き溜めていたものを全て破棄したと言われている。その後、『アルミード』『タウリスのイフィゲニア』を制作した後、1779年、卒中の持病もあり、ウィーンに戻り小規模な作品の作曲を手がけるが、それ以降は目立った作品も出すことはなかった。
生涯35曲ほどのオペラやバレエ音楽と器楽曲を残し、パリ滞在中代表作である『オルフェオとエウリディーチェ』、『アルチェステ』をイタリア語からフランス語へと翻訳したが、生涯を通してドイツ語オペラは一作たりとも書く事はなかった。
『モーツァルトの血痕』 辞典
シカネーダーの死
偉大なる作詞家で役者、歌手であるシカネーダーの死は、本人の言ったこととは裏腹で、晩年は時代の流れを読むことが出来ず、新しい出し物を出すことができなかったのである。また、フランス革命の余波、1811年の大インフレなどにより、経済的破滅をした。
シカネーダーは正気を失い、衰弱し、自暴自棄になったという。
妻エレオノーレと、ウィーンのアルザーフォアシュタットのネルバス・ハウス第30番に住まいを借りて、つつましい生活を送るも、その9ケ月後に亡くなる。
1812年9月21日のことであった。
病名は神経衰弱。
遺産は無く、わずかにあった衣類や本の価値は公式に71グルデンと評価され、現金は全く無かったという。
葬儀は、かつてシカネーダーと過ごした、アン・デア・ウィーン劇場の歌手たちによって、葬送に際しての、モーツァルトの『レクイエム』が歌われた。
遺体は、貧民墓地、ヴェーリンガー墓地の素掘りの共同墓地に運ばれ、友人モーツァルトと同じく、墓石も無く、彼が葬られた場所を示す十字架も無い。
エレオノーレ・シカネーダーはその後夫より9年長生きし、兄ウルパンはその後5年生きたのである。
(『魔笛とウィーン~興行師シカネーダーの時代』クルト・ホノルカ 訳・西原稔)
『モーツァルトの血痕』 辞典
死後48時間の遺体安置義務
当時のオーストリア・ハンガリー帝国の法令では、死後48時間の遺体安置が義務付けられていた。これは、仮死状態での埋葬を防ぐものだった。それは、確実に死を確認する方法が無かったからである。
『モーツァルトの血痕』 辞典
モーツァルトの二人の幼い息子
油彩による二人のモーツァルトの息子の肖像画。
右が兄カール。左が弟ヴォルフガング二世。
二人の間には六人の子供がいたが、モーツァルトが死んだときには二人の息子しか生存していなかった。
第一子 長男 ライムント・レオポルド(1783/6/23~83/8/19)
第二子 次男 カール・トーマス(1784/9/2~1858/10/31)当時生存。
第三子 三男 ヨハン・トーマス・レオポルド(1786/10/18~86八六/11/15)
第四子 長女 テレジア・コンスタンツァ・アーデルハイト・フリードリッケ・マリア・アンナ(1787/12/27~88/6/29)
第五子 次女 アンナ(1787/11/16~89/11/16)
第六子 四男 フランツ・クサーヴァー・ヴォルフガング(1781/7/26~1844/7/29)当時生存。
第六子のクサーヴァー・ヴォルフガングは、モーツァルト35歳の誕生日に産まれている。
レームベルグで音楽教師や合唱指揮などをしながら、室内楽などの作曲作品も多数あり、アマデウス・モーツァルト二世とも名乗っていた。
彼の父は、ほんとうはジュースマイヤーではないかとの憶測がある。
『モーツァルトの血痕』 辞典
マリア・アンナ・モーツァルト
(Maria Anna Walbuga lgnatia Mozalt)
(1751~1829)
愛称、ナンネル(Nannerl)。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの実姉。父はレオポルド・モーツァルト、母はマリア・アンナ。二人には3男4女の7人の子があったが、生き延びたのは、アンナと末っ子のヴォルフガングの二人だけだった。
当初は彼女も父の英才教育の中でクラヴィーア演奏を始め、弟ヴォルフガングと共に、ウィーンやパリなどの都市へ、父に連れられ演奏旅行をした。
レオポルドは、7歳のナンネルにレッスン用の50曲を「ナンネルの楽譜帳」に編集し、これを弾くナンネルの音楽を幼いヴォルフガングが聞き覚え、5歳にして弾けるようになったという。やがてナンネルは、神童モーツァルトのために全てを犠牲にする生活となったが,11歳のとき、マリア・テレージアに拝謁している。
1784年、判事であるフォン・ゾンネンブルグと結婚。3人の子を産み、ザルツブルグ郊外のザンクト・ギルゲンにある母アンナ・マリアの生家で暮らすが、1801年に未亡人となってからは、20年間ザルツブルグでピアノの教師として生計を立て、失明して9年後に死んだ。
弟のモーツァルトとの関係は、弟がウィーンへ行った頃から疎遠となり、モーツァルトがコンスタンツェと結婚した頃からあまり良好とは言えなかったようで、父レオポルドが死去した折には遺産相続のことでもめていた。また、モーツァルトが嫌っていた故郷に彼女がすんでいたことも、疎遠となった原因があったとも思われる。一方で、静かに天才である弟を見守り、晩年はモーツァルトの回想録編纂などにはいろいろ協力している。
サンクト・ギルゲンの家は、1983年から「モーツァルト記念館」となっている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
1791年12月6日、午後の気象
例えばこの日の葬儀と天候について、このような現象がある。
「~儀式にはこの不滅の音楽家の友人や知人が多数出席し、彼らは歩いてシュトゥーベントールまで霊柩車に随行した。しかしそこで、ものすごい吹雪のためにそれ以上見送れなくなり、そのため、馬車だけが聖マルクス墓地へと行ったのだった」(アーロイス・フックス、1841年、〈シュタットラー師の口から語られたもの、それ故絶対確実な覚え書き〉)
サリエリの弟子、アンゼルム・ヒュッテンブレンナーは、兄弟に宛た1842年4月4日の手紙にこう書いている。
「モーツァルト埋葬の結末については……(省略)、シュトゥーベントールを抜けて墓地へと運ばれたが、強い雨とぬかるみのため、ほんの数人しかついて行かなかったと思います」
(いずれも引用元は、ダルヒョウ、ドゥーダ、ケルナー共著/海老沢敏、飯島智子訳『モーツァルトの毒殺Ⅱ』)
実は、モーツァルトの葬儀に参列したという本人(シュタットラーとサリエリ、さらにスヴィーチンたち)から、この日が悪天候であっという証言がなされている。それはいずれも、1791年12月6日の午後であるとしている。
しかし、同日のウィーンの気象報告には、こう記される。
おだやかな天候とたびかさなる霧
午前8時 気圧27・7・6 気温2・6度 風速0
午後三3時 気圧27・7・0 気温3・0度 風速0
(引用 ダルヒョウ、ドゥーダ、ケルナー共著/海老沢敏、飯島智子訳 『モーツァルトの毒殺Ⅰ』)
しかし翌日の7日は、夕刻から南西の強風が吹き荒れた、とある。カール・ベーアは、このことから葬儀は実は、12月7日であったという仮説をたてている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
モーツァルトによる『レクイエム』自筆譜
モーツァルトが作曲した「死者のためのミサ曲」であり、彼の最後の作品である。
詳しくは後半、十五章で述べられることになる。画像はモーツァルトによるレクイエムの自筆譜。
『モーツァルトの血痕』 辞典
聖マルクス墓地
聖マルクス墓地のモーツァルト記念碑
モーツァルトが埋められたと推定されている場所に柳が植えられ、1870年にA・コーグラーによる記念碑が建てられている。だが、現在でも埋葬された正確な場所は不明のままである……
『モーツァルトの血痕』 辞典
フライハウス劇場
フライハウス劇場というのは、独立した一つの劇場としての建物ではなく、ウィーン河の中州にあった大きな区画の地所にある、いろいろな建物の集合体を指し、その中にあるヴィーデン劇場がフライハウス劇場と呼ばれたようである。フライハウス内には19世紀の中頃には225戸の世帯、住人は1000人、シカネーダーの頃で800人が住んでいたという。この劇場を建てたのはクリスチャン・ロスバッハという座長で、1787年に認可され、建築家アンドレアス・ツァッハがその図面を引き、78年10月14日が柿落としであった。しかしロスバッハは半年で劇場を手放し、受け継いだヨハン・フリーデルがシカネーダーの妻、エレオノーレと組んで、1788年の復活祭にて上演をしたことが、シカネーダーとこの劇場を結び付けたようである。1789年7月12日にシカネーダーは新作の喜歌劇『山だしの馬鹿な庭師・二人のアントン』であった。その後は独特の劇場経営の本能で、フライハウス劇場をしばし満員にした。
(引用 クルト・ホノルカ著/西原稔訳『〈魔笛〉とウィーン~興行師シカネーダーの時代』)
H・C・ロビンス・ランドン著/海老原敏訳『モーツァルト最後の年』には、エーゴン・コルモツェンスキーの叙述を引用して、そのフライハウスの当時の様子を描写している。引用してみる。
「6つの大きな中庭、32の階段、325の部屋か繁りあった巨大で複雑な建物で構成されており、そこには聖ロザリアを奉った独自の教会、ありとあらゆる手工芸の仕事場、マルサーノ家所有の搾油機、薬屋、ウィーン河から引いてきた流れによって動力を取る製粉所、などがあった。そこではすべての税が免除されていたので──所有者に感謝して──「自由の家【フライハウス】」と呼ばれた。大きな中庭には、並木道、花壇、木造のあずまやのある庭園があった。そこがリハーサル後にシカネーダー一座の人々が集まって、俳優や女優を『子供たち』と呼んで上機嫌で主宰する陽気な座長の主導のもとに、夜中まで大騒ぎをする場所だった。中庭に面した一方の縦長の側面を劇場が占めており、シカネーダーが拡張し高くした、タイル屋根の素晴らしい石造りの建物だった。この劇場1000人を収容し、長さ30メートル、幅15メートル、舞台は奥行きが12メートルあり、あらゆる必要条件を備えていた 安全性、快適さ、そして舞台のからくりなど。ボックス席は2列あり、2つに別れたオーケストラ[平土間【バスチール】、それに、モーツァルトの時代には、2階の天井桟敷(シカネーダーはのちにもう一層加えた)があった。
このとてつもなく広い場所には、アパートメントもむろんあったので、座長も一座のほとんどの人々もこのフライハウスに住んでいた……。
『モーツァルトの血痕』 辞典
フライハウスの見取り図
『モーツァルトの血痕』 辞典
フライハウス劇場の内部を描いたとされる図
『モーツァルトの血痕』 辞典
コンスタンツェ・モーツァルト
第一章にて解説。
『モーツァルトの血痕』 辞典
モーツァルトの経済状況
当時の芸術家は経済的には苦難するのが常套であった。現在のようにメディアは無く、劇場上演か貴族たちが摂り行った音楽会、パーティでの自作の指揮、演奏に対する報酬が支払われたに過ぎない。つまり上演に関する使用権などは存在しなかった。著作に関しては楽譜が出版されたが、多くの出版者は無断で出版、再版していて、著作権というものは存在しなかったのである。したがって、パトロン無しでは最低限の生活でさえも危ういというのが現状で、多くの芸術家は、召使として皇族、貴族宅に住み込み、召使としての給与をもらって生活をしていたというのが現状だったらしい。
例えば、モーツァルトの父、レオポルドはかつてザルツブルクの大司教ジークムント・フォン・シュラッテンバッハやトゥルン・ウント・シタシヌ伯のもとで召使同様に仕え、音楽以外の仕事にも従事することが決められていたし、ヨーゼフ・ハイドンもエステルハージー侯爵の召使兼音楽家として雇われていた。彼らは音楽家としても、主人の注文には答えて、あらゆるものを作曲することが義務付けられていたが、作品の権利は主人のものとなった。
そんな状況であったから、音楽が最も盛んなウィーンの土地にいながらも、音楽は貴族たちの社交会には演奏家は絶対不可欠なものでありながら、モーツァルト家は借金を重ねるしかなかったのである、というのは一つの説である。
だが一方で、モーツァルトは他のウィーンの音楽家の中では恵まれていたはずだという説もある。モーツァルトが残した膨大な作品にはそれぞれ相応(例えば宮廷劇場用オペラは450フロリーン=現在価値として約450万円)の対価は支払われているはずだし、宮廷音楽家としての報酬(年間800フロリーン)や貴族への音楽レッスン料なども収入としてあったから、ハイドンのような主人がいなかったモーツァルトは、その報酬は全部自分のものになったはずで、その金額は生活には不自由しないものになるはずだという。
とはいえ、プフベルグ、コルドハーン、スヴィーチン、リヒノフスキー、ラッケンバッヒャーなどに、モーツァルトが借金を重ねていたことは事実であった。故に妻のコンスタンツェの浪費家、悪妻ぶりが後年通説となっていくのである。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・ミヒャエル・プフベルグ
(1741~)
オーストリアのツヴェットル生まれ。同名の父は同地の領主の法律顧問を務めていた。1768年以来、彼はウィーンでミヒャエル・ザリエットなる商人のもとで働き、やがてその商会の支配人となった。その商売は織物商であった。モーツァルトが彼に宛てた借金を求める手紙が20通ほど現存している。それらの冒頭や最後にたびたび「同志よ」あるいは「盟友よ」と書かれ、彼がフリーメーソンの盟友であることがわかる。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨーゼフ・オーディロ・ゴルドハーン
(Joseph Odiro Goldhahn)
モーツァルト死後すぐに作成された『財産目録』、『差し押さえ報告』にその署名が確認できる。12月7日にモーツァルトの遺品の公式リストに、証人として「但し、私を不利な立場、あるいは何ら責任ある立場に置くことなく」と書き添えて、署名している。
モーツァルトの手紙にも彼の名が何度か出るが、なぜかゴルドハーンは、意図的に《某》とか〈N・N〉などと名前が隠される。あるいは後に手紙を整理したニッセンによって、名前が消されている。
参考『モーツァルト書簡全集Ⅵ』『モーツァルト最後の歳1791』H・C・ロビンズ・ランドン 訳・海老澤敏〉
『モーツァルトの血痕』 辞典
フランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤー
(1766~1803)
モーツァルトの助手。オーストリアのシュヴァーネンシュタッド生まれ。1779年から6年間をクレムスミュンスター修道院、同地のリッターアカデミーで哲学と法律と修得。この勉学期間にアルトとテノールの歌手及びヴァイオリン、オルガン奏者としても活躍していた。1788年よりウィーンに定住。1790年頃にモーツァルトと知り合い、弟子になったと思われる。モーツァルトの未完の『レクイエム』を補筆して完成したことで名高いが、現在でもその稚拙さが批判の的になっている。この時期のモーツァルトの手紙からも、コンスタンツェのバーデンでの療養の世話を引き受けていたことが知られるが、近年、彼とコンスタンツェとの音楽以外の関係まで噂され、モーツァルトの末子フランツ・クサーヴーァーが彼の子供だという推測まで登場している。
(引用 『モーツァルト書簡全集Ⅳ』)
モーツァルト亡き後はシカネーダーと親密になったようで、彼の依頼により『エジプト脱出』『アルカディアの鏡』を作曲。ケルンテルンの国民劇場の指揮者に就任した。
『モーツァルトの血痕』 辞典
アントーニオ・サリエリ
(Antonio Salieri)
(1750~1825)
イタリアのレニャーゴ生まれの古典派を代表する作曲家。
神聖ローマ皇帝及びオーストリア皇帝に仕がえる宮廷学長(カペルマイスター)としてヨーロッパの楽団の頂点にいた人物である。
幼少のころから、チェンバロ、声楽、ヴァイオリンの音楽教育を受け、類稀な才能を顕した。両親が死去した後、北イタリアのパドヴァ、ヴェネツィアに住み、1766年にウィーンの宮廷へと招かれた。
以後、ウィーンに留まり、皇帝ヨーゼフⅡ世によって1774年に宮廷作曲家、1788年には宮廷楽長に就任し、亡くなる直前の1824年までその地位にあった。1817年にはウィーン学友協会音楽院の指導者に就任。また、ニュー・イヤー・コンサートで有名なウィーン楽友教会の黄金ホールの設計、特に空間性、音響効果の設計にも携わっている。
教育者としての評価も高く、有名な生徒として、ベートーヴェン、シューベルト、リスト、ツェルニー、フンメル、マイアベーア、モーツァルトの『レイイエム』を完成させたジュースマイヤー、モーツァルトの息子フランツ・クサーヴァーが彼の指導の恩恵を受けた。
作曲家としては、特にイタリア・オペラ、室内楽、宗教音楽において高い評価を受けた。43曲のオペラを残したが、最も成功したのは、パリのオペラ座で初演された『ダナオスの娘たち』(1784)と『タラール』(1787)だった。
サリエリに関する事柄で最も有名なのは、モーツァルトと対立したことであり、1820年代のウィーンではねサリエリがモーツァルトから盗作したり、毒殺しようとしたと非難するスキャンダルが起こった。ただし、これらは何一つ立証されていない。
これは、ロッシーニを担ぐイタリア派とドイツ民族のドイツ音楽を標榜するドイツ派の対立の中で、宮廷楽長を長年独占していたイタリア人サリエリが標的にされたといわれている。(また、モーツァルト自身も「ウィーンで自分が高い地位に付けないのは、サリエリが邪魔をする為」と主張していたという)。
また、キャサリン・トムソン著/湯川新、田口孝吉・訳『モーツァルトとフリーメーソン』によれば、1786年5月1日の歌劇『フィガロの結婚』の初演で、劇場最上階に陣取った一派が大声を出すなどの妨害があり、これはサリエリが画策し、学生たちを雇っての妨害工作であったとしている。
但し、映画『ママデウス』などで描かれているような、彼が精神病院で生涯を閉じたり、モーツァルトを死に追いやったと告白する場面は、当時のスキャンダラスな風聞を元にしており事実とは異なる。
実際に彼は死の直前まで入院していたが、それは痛風と視力低下が元で起こった怪我の治療の為である。ただ、身に覚えのない噂に心を痛めていたらしく、弟子のモシェレスにわざわざ自分の無実を訴えたところ、かえってこれがモシェレスの疑念を呼び、彼の日記に「モーツァルトを毒殺したに違いない」と書かれてしまう結果になる。
彼はイゼンロッシーニからも「モーツァルトを本当に毒殺したのか?」と面と向かって尋ねられたことがあり、その時は毅然とした態度で否定する余裕があったが、病苦と怪我で気が弱くなっていたのは事実である。
実際の彼は、経済的に成功した為か慈善活動にも熱心で、弟子からは一切謝礼を受け取らず、才能ある弟子や生活に困る弟子たちには支援を惜しまなかった。職を失って困窮する音楽家やその遺族の為に、互助会を組織し、慈善コンサートを毎年開催し、有力諸侯に困窮者への支援の手紙を書くなどしている。また、イタリア出身の為、最後まで流暢なドイツ語が話せなかった。
また、モーツァルトのミサ曲をたびたび演奏し、『魔笛』を評価するなど、モーツァルトの才能を認めて親交を持っていたことが明らかとなっている。なお、1791年のモーツァルトの死に際してはサリエリは埋葬に参列し、1793年1月2日、スヴーチン男爵の依頼によりモーツァルトの遺作『レクイエム』を初演した。
74歳で死去。
墓所はウィーン中央墓地、0ブロック(第二門を入って左側塀沿い)にある。
(Wikpedia)より。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・ゲオルグ・アルブレヒツベルガー
(Johann Geolg Albrechtsberger)
(1736~1809)
モーツァルトより20歳年上のウィーン宮廷次席オルガニスト。モーツァルトは彼のオルガニストとしての技量を高く評価していたようである。アルブレヒツベルガーに、モーツァルトと神とこの世に対する勤めが委ねられていた、ということはゾフィーの手紙にも記されていた。
(参考 『モーツァルト書簡全集Ⅵ』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
貨幣単価
18世紀で最も一般的な貨幣単価は、ターラー、グルデン(フロリンと同じ)、グロッシェン、クロイツァー。その比率は以下の通り。
1グルデン=60クロイツァー=24グロッシェン
1ライヒターラー=90クロイツァー=24グロッシェン
1ツュペツィエスターラー=120クロイツァー=32グロッシェン
ドイツでは地域によって通貨の単位が異なるが、北ドイツでは1726年制定の「通貨鋳貨率」が適応され、この地域の34クラントマルクガ1ケルンマルクに相当し、1ターラーは3クラントマルクであった。
上記以外の主要通貨は次のようになっている。
1スヴレーン・ドール(オーストリア)=9ライヒターラー=13 1/2グルデン。
1フロリン(バイエルン)=6ライヒスターラー=1グルデン
1ドゥカーテン=3ライヒスターラー=41/2グルデン。
またドイツではライヒスマルクという貨幣が用いられたが、これは2ライヒスマルクが1グルデンに相当した。プロセインのラテン語学の教師の年収が600ライヒスマルクから1200ライヒスマルク、つまり300グルデンから600グルデンであった。当時の大学教授の年収は1200ライヒスマルクから3600ライヒスマルク。つまり600グルデンから1800グルデンということになる。モーツァルトがウィーンの宮廷室内楽作曲家として得た年収は800フロリン(グルデン)で、コンサートマスターの年収の相場は400グルデンから600グルデン程度であった。
(『魔笛とウィーン~興行師シカネーダーの時代』クルト・ホノルカ 訳・西原稔)
さて、「Electronic Journal〈なぜ、スヴィーチン男爵が埋葬執行人なのか〉に、このような興味のある記事がでている。
〈モーツァルトの研究家、藤澤修治氏のレポートによると、死の直前のモーツァルトは相当金銭的には潤っていたとしています。そのいくつかの根拠を提示します。
『レクイエム』作曲料の前金 225フローリン
『皇帝ティトゥスの慈悲』の作曲料 1125フローリン
『魔笛』の作曲料 900フローリン
宮廷音楽家の報酬/6ケ月 2630フローリン
合計 4880フローリン
その他、楽譜出版収入、ピアノや作曲の教授料などを加えると、ゆうに5000フローリンを超える収入(1フローリン、約1万円)があったのです……。
このお金はどこへ消えたのか?
後々、明らかに……。
『モーツァルトの血痕』 辞典
トーマス・フランツ・クロセット
(Thomas Franz von Crosset)
モーツァルト家の主治医。ウィーンにおける臨床医として高名で、皇帝一族にも医師として対応していた。臨床講義におけるデ・ハーンの後任教授で、当時世界的に有名であった臨床医マクシミリアン・シュトルの下で腕を磨くために1777年、ウィーンにやって来た。
彼は1783年に「腐敗熱」に関する論文をものにし、まもなく師シュトルを代講するようになったのみならず、彼に代わって治療にもあたった。それによって彼は「すべての学識ある医師たちの満足と一般大衆の尊敬を得た」のだった。
1787年5月23日にシュトルが亡くなると、彼がウィーンで最も高名にして人望ある医者となり、皇帝一家までもが対診医として幾度となく彼を招いたという。
1797年には、ついにウィーン大学医学部の客員メンバーとなった。
モーツァルトの臨終に立ち会ったのは彼で、その時の対応もゾフィーの手紙に記されている。
(参考「Electronic Journal〈クロセットは正しく診察したのか)
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨーゼフ・バウエルンファイント
1785年にロッジ《授冠の希望》に入団した人物。
ロッジの会員名簿には、皇王室合同法廷書記官と記載されている。他の宮廷記録には1789年度の宮廷公務員階級表によれば、ボヘミア=オーストリア合同法廷書記官と掲載されている。
(『モーツァルト書簡全集Ⅵ』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・フンツォフスキー
(Johann Hunczowsky)
(1752~98)
医師。1781年以来、郊外市グンペンドルフの陸軍病院付属医学校教授の職にあった。
彼は70年代にパリおよびロンドンに留学したほか、91にはレーオポルド二世の随員としてイタリアに学術研究旅行を行った後、皇王室侍医(外科担当)となった。
彼は1789年にコンスタンツェを診察したが、第五子アンナ・マリアーナの出産に立ち会ったものと考えられる。
フリーメーソンとして《真の融和》分団に所属していた。
参考『モーツァルト書簡全集Ⅵ』『モーツァルト最後の歳1791』H・C・ロビンズ・ランドン 訳・海老澤敏〉
『モーツァルトの血痕』 辞典
グルデナー・フォン・ローベス
詳細は『モーツァルト書簡全集』にも無かった。
ただし創造学園大学のブログにてモーツァルトについて長期連載しているものを見つけた。ここにはこう記載されている。
「このグルデナー・フォン・ローベス博士は生前モーツァルトを一度も診察しておらず、医師のクロセットから聞いた話しとしてこの手紙(『アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳『ハイドンとモーツァルト/現代医学からみた大作曲家の生と死』に記載されているジーギスムント・ノイコムに宛てた1824年6月10日付の、モーツァルトの死因に関する鑑定について記された手紙)を書いているのです。しかし、死後モーツァルトを見ている記述があるところからして、おそらくは公の検死官であったと思われるのです。しかしこれについては確証がとれていないのです。当時ウィーンで施行されていた医事衛生法では検死は義務づけられているのですが、検死を行う検死官はその土地の外科医もしくは軍医と定められており、内科医は検死できなかったはずなのです。グルデナー医師とクロセット医師はともに内科医であり内科医の二人が検死をしたとは思われないのです。したがって誰も検死していないというのが本当だったと思われます。それでは、この手紙の受取人であるジーギスムント・ノイコムとは何者なのでしょうか。
ノイコムは、かつてのハイドンの弟子であり、毒殺犯人であるとのサリエリの嫌疑をはらすために「論争ジャーナル」という雑誌に論文を書いたのですが、その素材としてグルデナー博士の所見というか鑑定が必要だったのです。要するにノイコムの立場は、サリエリの嫌疑をはらすというところにあり、毒殺説の反証 すなわち、モーツァルトは病死であるという証拠が欲しかったわけです。したがって、彼の論文の中で使われているグルデナー博士の鑑定もモーツァルトが病死したという客観的な証拠とはならないはずです(原文のまま)」
なお、このブログにはクロセット博士の履歴も記載していて、
「臨床講義におけるデ・ハーンの後任教授で、当時世界的に有名であった臨床医マクシミリアン・シュトルの下で腕を磨くために1777年、ウィーンにやってきた。彼は1783年に『腐敗熱』に関する論文をものにし、まもなく師シュトルを代講するようになったのみならず、彼に代わって治療にもあたった。それによって彼は『すべての学識ある医師たちの満足と一般大衆の尊敬を得た』のだった。1787年5五月23日にシュトルが亡くなると、彼はウィーンでもっとも高名にして人望ある医者となり、皇帝一族までもが対診医として幾度となく彼を招いたという。1797年にはついに彼はウィーン大学医学部の客員メンバーとなった……」
『モーツァルトの血痕』 辞典
遺産目録
モーツァルトの死後、法律上定められた遺産目録はコンスタンツェ立ち会いのもとで作成されている。その目録の詳細は『モーツァルト書簡全集Ⅵ』に掲載されている。また、H・C・ロビンズ・ランドン著/海老沢敏訳『モーツァルト最後の年』にはこんな記載がある。 「後にコンスタンツェは有名な(悪名高い)『ゴルドハン氏』、ヨーゼフ・オディーリオ・ゴルドハン(ゴルドハーン)のところへ連れて行かれた。彼はモーツァルトの金貸しである可能性があり(おそらく事実)、と考えられる人物で、12月7日(著者注・モーツァルトの死後3日後!)にモーツァルトの遺産公式リストに、証人として『但し、私を不利な立場、あるいは何ら責任ある立場に置くことなく』と書き添えて、著名している。この記録から見て、またモーツァルトの所有物とアパートメントの内容物とを書き出した他のリストから見ても、コンスタンツェがすぐに病気になったのではなく、12月中ほとんどこの家に残っていたことは明らかである(彼女は特に、公文書が彼女に渡され、目録が取られた9日、16日、20日はそこに居た)」 なお、モーツァルトの遺品目録評価は、合計152フロリーン19クロイツァーだと記入された。
『モーツァルトの血痕』 辞典
破棄されたモーツァルトの手紙
モーツァルトが身内や友人に当てた手紙は膨大であり、その全貌は海老沢敏、高橋英郎の翻訳により、白水社より『モーツァルト書簡全集』全六巻として出版されているほどだ。
本書のモーツァルト関係人物の履歴、人となりの情報はこの『書簡全集』に負うところが大きい。ところが謎とされているのが、『魔笛』と『フリーメーソン』に関して記されたもの、そしてシカネーダーおよび、フォン・ボルンとの間でやりとりしたはずの手紙や記録がほとんど存在しないのである。このことについて研究者の間では、コンスタンツェが意図的に、あるいは後にニッセンが破棄したと説明されている。だがなぜ、破棄されたのかについては議論が尽くされ、諸説繰り広げられているが、未だ謎のままである。
また、記録や関係者同士のやりとりの一切が無いところから、『魔笛』はいったいどうやって生まれ、どういう過程で作品となっていったのかの詳細は全く不明であり、それが為に多数の寓話が作られ、その真偽の見極めがいよいよ困難になり、『魔笛』をますます秘儀オペラに位置付けたようである。
不思議なことに、モーツァルトとシカネーダーとの手紙が存在しない。
これについては.紙のやりとりをする必要がないほど二人は親しかったのだ、とする説もあるが、互いにジングシュピールを作ることを約束しながら、旅巡業が多く、ウィーンになかなか落ち着けなかったシカネーダーに、本当にモーツァルトは手紙を出さなかったのかは、筆者には大きな疑問として残る。
『モーツァルトの血痕』 辞典
エマヌエル・シカネーダー
(Emanuel Schikaneder)
(1751~1812)
本当のところは、彼の生誕の地は中世時代から発達したバイエルンのシュトラウビングだったようで、1751年の教会の洗礼簿にシッケネーダーとしての出生が記録されている。ただし3歳でレーゲンスブルクに越してから青年時代までを過ごしたこの地を、シカネーダーは生誕の地と言っていたようである。
シカネーダー生誕の地
(参考 『〈魔笛〉とウィーン~興行師シカネーダーの時代』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨーゼフ・シッケネーダー
(Joseph Schickenedar)
(?~1753)
シカネーダーの父。
シカネーダーはほとんど覚えていないと言うが、本当のことはいいたくないのであろう。
父の名はヨーゼフ・シッケネーダーといい、その生誕地、日のいずれも不明であるというから、身分の低い者であったのだろう。
徒僕や司祭の下僕として働いていたようだ。ユリアーナとは1745年、シュトラウビングで知り合い、レーゲンスドルフで結婚している。より大きな町に期待をかけたようだが、失敗。その間に3人の子が生まれた。4番目の子シカネーダーが生まれたのは再びシュトラウビングに戻った時に生まれたのであろうか? 1753年、またレーゲンスドルフに引っ越した頃、ヨーゼフは死去したようである。シカネーダー、12歳の頃のことである。
過去帳にはラテン語で、使用人(ファムルス)と記されている。
(参考 『〈魔笛〉とウィーン~興行師シカネーダーの時代』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
ユリアーナ・シッケネーダー
(Juilana Schickenedar)
(1715~89)
シカネーダーの母。旧姓はシールス。
バイエルンの森のヴェットシェル出身、シュトラウビングの「領主の下僕」のシッケネーダーと結婚したときは、女中として働いていた。レーゲンスブルグで二人は結婚。ヨーゼフが亡くなってからはレーゲンスブルグの大聖堂の近くの小屋で、木綿を商い、子供たちを養った。
(『魔笛とウィーン~興行師シカネーダーの時代』クルト・ホノルカ 訳・西原稔)
『モーツァルトの血痕』 辞典
ウルパン・シカネーダー
(Urban Schikanedar)
(1746~1818)
シカネーダーの兄。フライジング司教の楽団に所属していたが、ラインバッハに巡業でやって来たシカネーダーに誘われ、以後、シカネーダー一座の専属となる。テノール担当の歌手でありながら、一座の運営を手助けしていた。また
『魔笛』の初演では、第一の僧を歌った。
(『魔笛とウィーン~興行師シカネーダーの時代』クルト・ホノルカ 訳・西原稔)
『モーツァルトの血痕』 辞典
謝肉祭
(Carnival)
キリスト教のイースター(キリスト復活祭)を迎える準備期間である40日間を、断食や節制などを行い,心身を清めるとする四旬節に先立ち、2月末から3月初週の、3~8日間開催される、庶民たちの陽気な祝祭である。この時ばかりは、道化や滑稽芝居や歓楽が、教会からも許れた。
ドイツ、オーストリア、スイスなどでは、この期間に謝肉祭劇が盛んに演じられていた。
もともと古代ゲルマンの春の到来を祝う祝祭であったとされ、羽目を外した大騒ぎの後、その狼藉ぶりの責任を藁人形に託し、火あぶりにして閉幕したのが、原始的なかたちであったという説もある。
Carnivalとは、肉を取り除くという意味で、Carnivaが終わると、肉絶ちの四旬節がはじまるのである。「肉よ、さようなら」ということで、日本では謝肉祭と訳される。
しかし、昔のヨーロッパにおいても、庶民は肉を食べるという行為は贅沢なことであった。普段は、干したり燻製にしたりした保存肉をなんとか食していたが、それも春到来以降は腐ってしまうから、その前に全部食べてしまおうという期間でもある。
ちなみに、40日というのは、ノアの洪水、イエス・キリストの荒野での断食の40日、イスラエル人たちの荒野の放浪の40年にちなんでいる。
『モーツァルトの血痕』 辞典
コミカルな芝居『ジングシュピール』
ジングシュピールとオペラ
オペラの語源はイタリア語で「仕事」「作品」を意味するという。
その歴史は1600年頃。ルネッサンス運動の副産物としてイタリアに生まれた。16世紀末にはフィレンツェにてギリシャ悲劇の復活を目的として、この運動は発展し、貴族的な趣味的芸術となった。17世紀にはヴェネツィアにオペラの専門劇場が開設され、ヴェネツィアがオペラの中心となった。17世紀中頃にはフランスに伝えられ、ルイ王朝の保護によってフランスのオペラが作られるようになった。18世紀からはイタリア・オペラの形式はドラマの発展はレチタティーボ(朗唱=会話を表現)、音楽的にはアリア(詠唱)に集中させる様式となって、パリ以外の諸都市に広まっていった。この頃まではオペラといえばイタリア語のイタリア形式が正統であり、ドイツ語圏のウィーンにおいてもサリエリが宮廷音楽の楽長の地位に就くほど、イタリア人音楽家が重宝された。ドイツ人作曲家グルック(1717~87)はオーケストラと合唱の表現力を増大させ、それまでのイタリア・オペラに音楽的性格を与えたが、ドイツ語のオペラは一曲も書かなかった。
ジングシュピールとはドイツ語で、歌を伴う芝居を指す。オペラと違うのは、朗唱の部分を地の台詞で展開させるところにあり、オペレッタ、あるいはミュージカルに近いのかもしれない。ジャック・シャイエの『魔笛・秘教オペラ』によると「ジングシュピールというのは、フランス・コミックのたんなる同意義語でしかない(略)、オペラ・コミックというのは『フランス独自』の形式で、ジングシュピールは『ドイツ独自』の形式であるとする見方は誤りである」という。ドイツの演劇はしばらくこのフランス・コミックの粋を出ることはなかったが、フランスではジャン=ジャック・ルソーやフィリドールなどが出現し、社会風刺や文学的風潮を生み出すに至っていた。ドイツにおけるジングシュピールの変革はやはりモーツァルトから始まった。12歳で作曲した小品『バスティアンとバスティエンヌ』はドイツ語によるジングシュピールであり、以後、ドイツ語のジングシュピールにこだわったモーツァルトはまさに『魔笛』で、ドイツ・オペラを確立し、以後、ベートーヴェンの『フィデリオ』、ヴェーバーの『魔弾の射手』へとその系譜が作られ、19世紀末にはワーグナーの大がかりな楽劇(ムジーク・ドラマ)へと発展していく。結果、20世紀にはジングシュピールは完全に消滅してしまうのである。
『モーツァルトの血痕』 辞典
帝国都市シュトラウビンク
『モーツァルトの血痕』 辞典
イグナーツ・ヤーコブ・ホルツバウアー
(Ignaz Jakob Holzbauer)
(1711~83)
ウィーン生まれの作曲家。1745年にはウィーン宮廷劇場のカペルマイスターに就任している。後にマンハイムの宮廷からスカウトがあり、以後マンハイム宮廷楽団の楽長として、残りの人生をマンハイムで過ごした。
マンハイム楽派に所属し、119曲も作曲した交響曲をはじめ、協奏曲、室内楽、オペラなど多数作曲している。
彼のオペラ『ギュンター・フンォ・シュヴァルツェンブルグ』は、14世紀に実在した王の人生を題材にしており、ドイツ国民的オペラとして最初期にあたるこの作品の公演にはモーツァルトとその姉も訪れている。モーツァルトはこの作品に触れた感想をこう記している。
「ホルツバウアーの音楽は大変美しいが、詩はそのような音楽に相応しくない。私が何に一番驚いたかというと、オペラは信じられないくらいに炎で満ちており、ホルツバウアーのような高齢の人物(66歳)がいまだにこれほどの情熱を保ち続けているということだ。」
(ウィキペディア)
『モーツァルトの血痕』 辞典
エレオノーレ・シカネーダー
(Ereonore Schickenedar)
(1751-1822)
旧姓アルト。トランシルヴァニアのヘルマンシュタット生まれ。アンドレアス・ショップフの養女として、一座の看板女優だった。1777年、エマヌエル・シカネーダーと結婚。夫婦そろって、モーサー一座に移った。ただし、シカネーダーが大変な浮気者だったので、一度シカネーダーの友人で同じ一座にいた作家ヨハン・フリーデルと駆け落ちして、シカネーダーとは離婚した。フリーデル夫人となったエレオノーレは。しばらくはフリーデルと他の一座の女優として、あるいは経営者として切り盛りみした。やがてウィーンの劇場フライハウスの権利主を手に入れるが、フリーデルが結核が原因で38歳で亡くなると、シカネーダーの元へと帰り、フライハウス劇場主の権利を持ち帰った。
その後は、生涯連れ添い、シカネーダー看取ったのは、エレオノーレだった。
シカネーダーは二人の子供がいたが、どちらもエレオノーレの子ではなかった。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヒエローニェム・フランツ・デ・パウラ・
ヨーゼフ・フォン・コロレード
(Hieronymus Joseph Franz de Paula Colloredo)
ザルツブルグ大司教。ローマ法皇庁の緋の衣を身にまとう身分である。中世においてはザルツブルグ大司教領(1278~1803)の領主でもあった。
コロレードは、1772年3月14日に、亡くなったシュラッテンバッハ大司教に代わり、ハプスブルグ家の後押しもあって、新大司教に就任した。実質は、ザルツブルグの支配者であった。
モーツァルトとの関係は次回、『第三章・私はシカネーダー(後半)』にて、展開。
ところで、大司教とはどのような地位なのであろうか?
ローマ・カトリック教会の組織は次のように定められている。
1、教皇・一般にローマ法王と呼ばれる。組織の頂点である。
2、枢機卿・教皇選出選挙(コンクラーヴェ)の選挙権は、枢機卿のみが持つ。枢機卿は緋色(カーディナル・レッド)の聖職者服を身にまとうが、信仰の為なら命を投げ出すという決意を表す色だとされている。
3、総大司教・教会行政上の格式、称号として重要な教会の司教に与えられる。
4、大司教・一国、あるいは一地方の教会管区の長で、各司教の上に置かれる。
5、司教・主教ともいう。地方教区の監督者。司祭の上に置かれる。
6、司祭・教会の神父
『モーツァルトの血痕』 辞典
アントン・クライン
(Anton Klein)
(1748~1810)
言語学者で詩人。後、国家公務員となり、マンハイムの大学の詩学と哲学の教授となった。
『ギュンター・フォン・シュヴアルツェンブルグ』は1777年にマンハイムで初演されている。
クラインは、戯曲『皇帝ルードルフ・フォン・ハープスブルグ』を書いている。その初稿はオペラ用台本で、1781年にマンハイムの《選帝侯ドイツ語協会》に提出されている。クラインはこれをモーツァルトに送って作曲を乞うていたが、モーツァルトはこの台本にまったく興味を示さなかった。
(『モーツァルト書簡全集Ⅵ』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・バティスト・ヘンネベルグ
(Johan Baptist Henneberg)
(1727~91)
シカネーダー一座の指揮者であり、作曲家でもあった。
『魔笛』の初演時はモーツァルト自身による指揮だったが、モーツァルトの体調がすぐれなくなると、彼が代わって指揮をした。
『モーツァルトの血痕』 辞典
コロレード大司教とモーツァルト
ザルツブルクは、モーツァルト生誕の地であり、現在は毎夏モーツァルトを記念としたザルツブルク音楽祭が行われることで、世界の音楽ファンに知られるオーストリアの都市である。現在は人口15万人を擁する。「ザルツブルク・ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト空港」が当地の空港の名である。
17世紀当時、ザルツブルクは大司教領の独立した小国であり、ヴァチカンに任命された大司教が君主として派遣された。大司教は司教の上の地位であるが、その上に首座大司教、総大司教、枢機卿の位があり、枢機卿の中から教皇が選出されるのがカソリックの総本山、ヴァチカンと呼ばれるローマ教皇庁の組織である。
モーツァルトは1776年、二十歳の時にザルツブルクの大司教宮廷音楽家としてコロレード大司教に仕え、宮廷楽団のコンサート・マスター、宮廷オルガニストとして活躍した。
ところがモーツァルトは君主であるコロレードとは反りが合わず、決裂し、二度と故郷へは帰らないと宣言してウィーンに移り住んだという経緯があった。コロレードは出先のウィーンへ、モーツァルトを呼び出した。
1781年5月9日付のウィーンから、ザルツブルクにいる父、レオポルドに宛た手紙には「ぼくはまだ腹わたが煮えくりかえっています」から書き出し、当時のモーツァルトの心情が記されている。一部抜粋する。
「──大司教『ところで、〈若いの〉いつ発つのだ?』──ぼく『今夜、発つつもりでしたが、座席がもう一杯でした』すると一気にまくしたてたのです。──おまえみたいなだらしない若僧は見たことがない──おまえみたいに勤めのおろそかな奴はいないぞ。──今日中に発つならいいが、さもなければ国元へ手紙を書いて、〈給料〉を没収するぞ、と烈火の如く膜したてるので──口をはさむこともできませんでした。──ぼくはそれを平然と聞いていました。──奴は、ぼくが五○○フロリーンの給料をもらっていると。面と向かって嘘をつき──ぼくのことを〈ろくでなし【ルンペン】〉と呼び、〈ばか〉よばりしました。──ああ、とても全部は書きたくありません。──ついにぼくは、血が煮えくり返ってきて、言ってやりました。──『では猊下はわたしに御不満なんですね?』──『なんだ、きさまはわしを脅す気か? 〈ばかもん〉ああ、〈ばかもん〉!──ドアはあそこだ、分かるか、こんな〈哀れな小僧っ子〉に、もう用はない』──とうとうぼくも言いました。──『ぼくはもう、あんたに用はありませんね』──『さあ、出て行け』──そこでぼくは、部屋を出ながら──『これが最後です。あした、文書で届けます』……」
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヒエローニェム・フランツ・デ・パウラ・
ヨーゼフ・フォン・コロレード
(Hieronymus Joseph Franz de Paula Colloredo)
ザルツブルグ大司教。
詳細は、第三章・私がシカネーダー(前編)をご参照ください。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヴォルテール(Voltaire)
フランソワ=マリー・アルエ(本名)
(François-Marie Arouet)
(1694/1/21~1778/5/30)パリ生まれの作家、哲学者、ベニヤミン啓蒙主義者。18世紀後半にフランスで刊行された『百科全書』の執筆者の一人。執筆者たちは合理主義、懐疑主義に基づく啓蒙主義者で、百科全書派ともいわれ、その運動はフランス革命の精神的基盤を造ったとされる。
ヴォルテール自身は、ロンドンで英国の議会政治や経験主義などを学び、フランスにもどってからは、その合理的精神を機知にあふれた風刺や明快な表現をする散文で、その地位を築いた。
また、無神論者ではなかったが、教会を非難し、その偏見性や不正裁判、狂言性を激しき攻撃した。
代表する著作に『哲学書簡』、小説『ザディグ』『カンディード』、歴史書『ルイ14世の世紀』、論文集『哲学辞典』など。
ただし、『哲学辞典』などではユダヤ人を徹底して攻撃する反ユダヤ主義でもあった。
フリーメーソンであり、彼のエプロンがパリのフリーメーソン博物館に飾られている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ジャン=ジャック・ルソー
(Jean-Jacques Rousseau)
(1712/6/28 ~1778/7/2)スイスのジュネーブ生まれ。フランスで活躍した作家、哲学者で啓蒙主義者。
幼くして両親を亡くし、青年時代まで放浪をしながら職を転々とし、その間に独自で文学、哲学、音楽などを学んだ。
1749年「人間は本来善良であるが、堕落を正当化する社会によって不健全となっている」との立場から、学問や芸術に人間の腐敗や堕落をもたらせていると『学問芸術論』で提起し、「自然へ帰れ」と提唱した。
著書の『人間不平等起源論』、『社会契約論』などでは、人民主権の理想と人間平等主義を説いて、後のフランス革命に大きな影響を与えることになった。
また『社会契約論』の冒頭に記した「人間は自由なものとして生まれた。しかしいたるところで鎖に繋がっている」言う言葉も有名である。
『エミール』で今もって教育学の名著であり、『告白録』では赤裸々な自分自身を語った。
『モーツァルトの血痕』 辞典
シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー
(Charles-Louis de Montesquieu)
(1689/1/18 –~1755/2/10)フランスの法律家、歴史家、啓蒙主義者。
専制政治の病理性を説き、絶対主義王政の末期を異邦人の口から語らせた『ペルシャ人のも手紙』は、フランスの政治と社会を見事に風刺し、一躍脚光を浴びた。アカデミー・フランセーズの会員に選出され、『法の精神』を執筆。ここで三権分立を主張し、フランス革命のみならず、アメリカ合衆国憲法にも影響を与え、その精神や解釈は現在も生き続けている。
イギリスでの2年の滞在中、フリーメーソンに入会していて、1721年にグランド・マスターに昇進している。
『モーツァルトの血痕』 辞典
四つのフリーメーソン・ロッジ
1717年、ロンドンにおいてフリーメーソンの4つの分団【ロッジ】が合併して、大親方【グランド・マスター】を選出し、これにより近代フリーメーソンが始まったというのは、自他共に認められるフリーメーソンの正式な歴史である。
しかしその実態は、単なる居酒屋クラブだったということはあまり知られていないのではなかろうか。この時参加した四つのクラブは「アップル・トゥリー」「クラウン」「ラマー・アンド・グレイプス」「グース・アンド・グリドアイアン」で、全てこれは、当時ロンドンに実在した居酒屋の名前である。つまりこの四つの居酒屋の常連客が、「グース・アンド・グリドアイアン」に集まって、一つのクラブに合併したのである。
『モーツァルトの血痕』 辞典
近代フリーメーソンの発足
古代エジプト、ソロモンの神殿、あるいはテンプル騎士団、薔薇十字団といったものから派生した、などと諸説あるフリーメーソンだが、その実態、歴史は、実のところよくわからない、というのが今もって専門家たちの見解である。あるいは1717年に英国で近代フリーメーソンが結成される以前には、フリーメーソンなるものは存在しなかったとする説も確かにある。しかし21世紀の今日において、フリーメーソンという組織は存続していて今なお活動しているのは確かなことだ。
ヨーロッパやアメリカ合衆国を中心に全世界に約600万人ほどの会員が存在しているとされ、日本にも東京都港区芝公園に日本グランド・ロッジが置かれている。
このフリーメーソンは今、世界の経済や政治、情勢にどれだけ関わり、どれだけの力をもっているのかは、ここで論じるとキリがないので、別項にて考察する。
いずれにせよ、思索的フリーメーソンは、石工職人たちのギルドとは別のものであるというシカネーダーの意見は慶眼であると言えよう。
先ほどの【4つのフリーメーソン・ロッジ】の項で紹介したように、1717年、ロンドンにおいてフリーメーソンの四つの居酒屋の名を持つ、4つの分団【ロッジ】が合併して、大親方【グランド・マスター】を選出し、これにより近代フリーメーソンが始まったわけである。
今ではえらく秘密めいた、神秘のヴェールに包まれた、よもすれば怪しいオカルト結社とも連想される近代フリーメーソンの最初は、インテリ紳士たちの、政治や文化、趣味について語り合う為の飲み会の場だったのである。もちろん、最初はさほど大きなものでもなく、世間に大きな影響を与えるような存在でも無かった。
この時選出された初代大親方【グランド・マスター】は、アンソニー・セイヤーだった。大親方とはグランドロッジの運営をする役職である。
ところが後、大親方にスコットランドのプロテスタント牧師であったジェームズ・アンダーソンが就任した頃から、博愛主義団体運動がフリーメーソンの中に湧き起こった。アンダーソン牧師は自らの手により1723年、「フリーメーソン憲章」を作成し、出版した。これは、わずか数ページのものであったが、フリーメーソンの歴史、理念、規範などが示唆されていて、これが今日の思弁的フリーメーソンの儀式、規則の基盤となっていった。
「フリーメーソン憲章」は「ゴシック憲章」という古いフリーメーソンの規約が元になっているとされ、この中でフリーメーソンの起源は遥か古代にあると記述されたのである。
(参考 『フリーメーソン』吉村正和)
『モーツァルトの血痕』 辞典
アンダーソン憲章
1721年、フリーメーソンの歴史、規約、目的に関する憲章作成の必要に伴って、長老派教会のジェームズ・アンダーソン牧師によって編集され、1723年に『フリーメーソン憲章』として出版された。
『モーツァルトの血痕』 辞典
レオポルド・モーツァルト
(1719~1787)ヨハン・ゲオルグ・レオポルドは、アウグスブルクの製本屋に生まれた。祖曾祖父と祖父は建築家、叔父には彫刻家であった。司祭になることを目指しザルツブルクのベネディクティン大学にて学ぶも、出席日数が足りず退校処分となる。
音楽に熱中していた彼はトゥルン・ウント・タクシス伯爵家にて、音楽家兼召使として働いた。
1743年、34歳でようやくザルツブルクの大司教宮廷楽団の第四ヴァイオリニストとして採用された。
1748年、農村の小役人の娘マリーア・アンナ・ベルトゥルと結婚。51年長女ナンネル、56年にヴォルフガング・アマデウスが生まれる。
175年に宮廷作曲家、63年に副楽長となるが、以後87年に歿するまで昇進することはなかった。
音楽家としての才能はヴォルフガングの前に霞がちだが、ザルツブルクにおける一流の音楽家の一人であった。
ただし、宮廷音楽家としての地位を得、守る為には貴族社会に苛立ちを持ちながらも迎合し、受け入れ、貴族社会の中で認められることを望んだ。
4歳のヴォルフガングの才能に気付き、これぞ神が与えてくれた天賦だと思い込んだレオポルドは、さっそく息子を使って各地の王侯貴族にとり入ろうとヨーロッパ旅行をしたことは周知のことである。
1763年のミュンヘンを始めとして、ウィーン、ルートヴィヒスブルク、マンハイム、マインツ、ボン、ケルン、ブリュッセル、パリ、ヴェルサイユ、ロンドン、ハーグ、リヨン、ジュネーブ、ローザンヌ、ドーナウエッシンケンと、その旅はヴォルフガングが12歳になるまで続いた。
この旅行は「ザルツブルクの神童」としてヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトという名をヨーロッパ中に馳せらせることに成功した。しかしレオポルドは「音楽の故郷はイタリアである」という考えから、ヴォルフガング14歳の時に1年3ケ月に渡ってヴェローナ、マントヴァ、ミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、トリーノ、ヴェネチアと周り、その間ヴォルフガングは『ポントの王ミトリダーテ』、『アルバのアスカーニョ』といったイタリア・オペラを作曲し、少年オペラ作家としイタリアでも名を馳せた。
その間ヴァチカンから〈黄金の騎士勲章〉を授けられている。
その後も2度のウィーン旅行、3回のイタリア旅行をした後、ようやくレオポルドの期待通り故郷ザルツブルクの大司教宮廷音楽家としてコロレード大司教に仕えることができた。ところが大司教とはソリが合わず、嫌悪もあらわに命令を無視してヴォルフガングは辞職してしまった。
レオポルドは怒りをかった大司教に対し、自分も宮廷音楽家を解雇されるのではなかろうかと怯え、手紙で何度も大司教と和解をするようにと忠告したが、ヴォルフガングは「若さ」もあって、これを頑として受け付けようとはしなかった。あくまで封建社会を受け入れ貴族になろうとした現実主義のレオポルドと、音楽家として封建社会に反旗を翻した息子ヴォルフガングがここに対峙した。
自分の音楽的才能は必ず封建社会の枠組を越えて理解されるはずだとするモーツァルトの理想とも言える考えと行動は、結局モーツァルト自身、生涯金銭面で恵まれなかった結果に陥った。モーツァルトが人間は神のもとに自由である、とするフリーメーソンの思想、理念に傾倒していった理由はこのあたりにありそうだ。
1787年5月28日早朝、レオポルドは脾臓閉塞により死去。看取ったのは娘のナンネル夫妻とブリンガー神父であった。六八歳であった。
なお、ヴォルフガングの母であるマリーア・アンナは1720年生まれ。7人の子を産むが生き残ったのは二女のナンネルと末子のヴォルフガングだけだった。1788年7月、パリ滞在中に息子ヴォルフガングに診とられて死去した。
(参考・海老沢敏/著『新モーツァ.ルト』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
イグナーツ・フォン・ボルン
(Ignaz von Born)
『魔笛』というこれから語られる謎に満ちたオペラの企画立案者の一人であり、日本の諸君にも大きく関わってくる人物である。彼に付いては後に詳しく語ることとなる……。
『モーツァルトの血痕』 辞典
フランツ・ヨーゼフ・トゥーン=ホーエンシュタイン
(Franz Joseph Thun-Hohenstein)
(1734~1800)伯爵。メスマー博士の信奉者として、磁気療法も実践していた。
神秘主義に関心を示し、薔薇十字団のメンバーかつ、フリーメーソン《融和》のグランドマスターであった。
『モーツァルトの血痕』 辞典
アレッサンドロ・ディ・カリオストロ
(Ignaz von Born)
(1743~1795)自らを「アラビアのメディナで生まれた貴族の王子」と称したが、実際はシチリアのパレルモの出身である。少年時代に修道院を追放され、ギリシャ人の錬金術師アルトタスの弟子となって、魔術や錬金術をマスターしたと本人は回想するも、アルトタスなる人物が実在したかは不明である。
本名は、ジョゼッペ・バルサモ。1771年ごろからカリオストロ伯爵と名乗って、ヨーロッパの各都市に現れ、宮廷や貴族の人気者となった。カリオストロは遠名家の名だったらしい。
カリオストロは、医師、魔術師、錬金術師、占星術師といった肩書でもって、妻(ロレンツァ・セラフィーナ)と同伴で高級ホテルに泊まり、専用の馬車に乗り、宝石をちりばめた派手な衣装姿で、あるいは軍服姿で、時には銀のステッキをもった錬金術師として上流階級の中に紛れ込んだ。伯爵と名乗ったがもちろん嘘である。しかし、セラフィーナも着飾った伯爵夫人を演じきったのである。
患者から金をとらない医者として注目され、霊媒を使った透視や預言を行った。これがしばし的中し患者も完治したという。この技術は「メスマリスム」(フランツ・アントーン・メスマーの項で解説)を応用したものと思われる。
また、降霊術を披露したり、錬金術師として「不老長寿薬」や「若返り美顔水」などを売っていた。
一方、彼のことを詐欺師、山師として怪しんだ人たちも当然いた。
1777年、ロンドンでフリーメーソンとなるが、自ら「グランド・コプト(コプトとはエジプトの大司祭のこと」と名乗り、ロンドン滞在中に、エジプト的儀礼や象徴体系を記した古文献を発見したという。これらの文献に基づき、彼は、フリーメーソン・エジプト起源説を唱えるようになり、パリにエジプト派のフリーメーソン・ロッジを設立している。また、イルミナティのメンバーであるとも公言していた。
1785年、王妃マリー・アントワネットの友人と称する女の巨額詐欺、「王妃の首飾り事件」に巻き込まれて、バスチーユ牢獄に一年と動きされるも無罪となり、出獄し、ただしフランスからは出ていくことを命じられた。
カリオストロは、出所後はロンドンに移り住むが、かつてのカリスマ性は、だんだんと陰をひそめていった。
1789年、教皇庁直轄のローマでフリーメーソンであったことや数々の詐欺行為、キリストを罵倒し、黒魔術を行っていたことなどを咎められ、宗教裁判にかけられる。これは、カリオストロとの生活が不安なもので、行く先々で投獄される危険にさらされていることにうんざりした、妻セラフィーナの告白から出たものであった。
1791年に終身刑を言い渡され、サンレオ城の独房に投獄。1795年に獄死した。
一方、裏切ったセラフィーナも、教皇庁から危険で邪悪な存在とされてローマの修道院に終身閉じ込められ、発狂死したという。
彼が大成したエジプト儀礼は、19世紀に魔術結社「黄金の夜明け」が復活させている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
エマヌエル・スヴェーデンボルグ
(Emanuel Swedenbolg)
(1688~1772)スウェーデン王国出身の政治家、鉱山技師、この科学者、神学者、神秘思想家。
父はルーテル教会の牧師で、スウェーデン語訳の『聖書』を最初に刊行した人物である。
スウェーデンボルグは、当時ヨーロッパでも有数な学者であり、彼の精通した学問は多数に及ぶ。それらを研究する中で、真理は物質の中ではなく、有機的な生命の中にあると考えるようになり、生物学や解剖学をマスターするようになった。
右脳、左脳の理論の最初の提唱者は彼であった。
しかし、肉体的、物理的な研究からは、人間の本質を見いだせないと思った彼は神学や神秘主義に傾倒するようになった。
1743年、人体の器官と機能を体系的に説明する『霊魂の王国』出版の為、オランダに出向くが、その途中から神秘体験をするようになり、イエス・キリストを何度か幻視する。
これにより、物理的な研究では霊魂は見いだせないとして、17巻を予定していた『霊魂の王国』の執筆を3巻で放棄。以後、神秘主義に傾倒し、霊界の存在を証明しようと多くの実験を行い、多くの著書を残した。
スウェーデンボルグは、幼少の頃から、朝夕のお祈りの時に、瞑想を画するために故意に息を止める方法を会得していて、これを駆使することによって、死後の世界、すなわち霊界へ自由に出入りするようになったという。
この中で『聖書』の真の意義、秘儀を明らかにする使命に目覚め、『天界と地獄』などの著書を著し、啓蒙期のヨーロッパの思想、哲学界に衝撃を与えた。また、霊魂の独立存在や死後存続を信じた。
死後、1787年にロンドンで彼の教理を信じる信者グループにより、新エルサレム教会が設立され、1792年、アメリカのボルティモアに最初の教会が建てられた。現在日本にも世田谷区に教会がある。
日本の初代文部大臣となった森有礼は、16歳で薩摩藩より英国へ留学。その後アメリカにわたって、スウェーデンボルグ派の精神を持つ教師の生活協同団で生活を共にしつつ学んだ経験がある、と森有礼の孫娘、関屋綾子は『一本の樫の木・淀橋の家の人々』に書いている。
スウェーデンボルグは、1706年にストックホルムのフリーメーソンに入団。
彼の神秘的思想は後のフリーメーソンに多大な影響を与えたことは確かなことである。
フリーメーソンの中には、スウェーデンボルグ儀礼を取り入れたロッジも存在する。
スウェーデンボルグの教えを元に設立されたとされ、それは、徒弟、職工仲間、新しい親方、光輝な神智論者、青の兄弟、赤の兄弟の六階位よりなる。1773年、フランスのアヴィニョンに設立されたが10年で廃止。1870年にヘルメス主義組織として復活した。
なお、スウェーデンボルグ教義を軸とするスウェーデンボルグ教義の別名は、ストックホルム・イルミナティと呼ばれている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・ヨーゼフ・アントーン・トゥーン
(Johann Joseph Anton Thun-Hohenstein)
(1711~88)ペーソン家系の家長として、プラハとリンツに居を構えていた。リンツのフリーメーソン分団《七賢人》のグランドマスターを務めていた。
『モーツァルトの血痕』 辞典
フランツ・アントーン・メスマー
(Franz Anton Mesmer)
(1734~1815)ドイツ南部のシュヴァーベンのコンスタン湖湖畔のイツナング村に生まれる。
インゴルシュタットのイエズス会の大学で学んだ後、1759年よりウィーン大学で医学の勉強を始めた。『人体への惑星の影響について』という博士論文を発表。医療占星学ではなく、ニュートンの潮の干満理論に頼るもので、人体にも太陽や月に連動した干満理論(物理的流体)があるとするものであった。
動物磁気とは、患者の体内に鉄を含む調合材を飲ませ、人工的な干満を生じさせ、体のあちこちに磁石を付けることで、療養するというものであった。いわば、宇宙に偏在する時期的性質を帯びた微細な粒子からなる流体は、人体にも適応するというものである。
ヒステリー発作を患った女性患者にこの療法を試したところ、効果が認められ、それは動物磁気(magnétisme animal)によるものだと、メスマーは研究を続けた。
この治療法は「メスメリズム(mesmerism)」と名付けられ、オーストリアのみならず、ドイツやイギリスにも伝わった。
メスマーは、磁気治癒を施すことのできる施設を創立。1783年には「調和協会」なるものを設立した。
メスマー自身は、磁気治癒は決して神秘的な療法ではないとしながらも、「調和協会」をロッジと呼び、教理を伝える為に象形文字やシンボリックなものを使用し、協会員にもフリーメーソンの参入儀式と酷似したものを受けることを強要した。もっとも、メスマー自身も、協会員のメンバーたちも、ほとんどがフリーメーソンであった。
メスマーの弟子ピュイセギュールは、この治療中に患者が深い磁化催眠状態に入ることを発見。それによると患者は、磁気治療中人格が変わったり、通常見たり聞いたりしている感覚を驚異的な感覚の拡張をもたらす、というものであった。さらに患者は、驚異的な透視能力や冷媒能力を得て、不可視なものに対する質問にも答えることが出来たという。
そのままメスメスムは、暗示療法として名を遺すこととなる。いわば、催眠療法のはじまりである。1842年、ジェイムズ・ブレイド(James Braid, 1795 – 1860)によって、催眠術の開発がもたらされたが、メスマーの名前は mesmerize(催眠術をかける)の由来となった。
1775年、ミュンヘン科学アカデミーからの依頼で、聖職者のヨハン・ヨーゼフ・ガスナーの行った悪魔祓いに関して意見を求められた。ガスナーは信仰からくるもの、メスマーは、高度な動物磁気を使用した結果だと返答した。
1784年、ルイ16世は、動物磁気調査のため、委員会を発足。メスマーが正しい物理的な流体を発見したかどうかの調査であったが、委員会はその証拠はない、と結論付けた。
メスマーは、当時パリにいたが、その直後亡命。
その後の20年間はほとんど活動もなく、メールスブルグにて没した。
モーツァルトは、『コシ・ファン・トゥッテ』(K588)の中なかで、このメスマー博士に音楽上の記念碑を遺している。
『モーツァルトの血痕』 辞典
オットー・フォン・ゲミンゲン=ホルンベルク
(Otto Freiherr von Gemmigen-Hornberg)
(1755~1876)男爵。マンハイムの外交官。モーツァルトのパトロンの一人だった。
彼には文才があり、モーツァルトがこの、フォン・ゲミンゲン作の『ゼーミラミス』をテキストとしたメロドラマの一部に曲をつけることを試みたことは知られるが、未完の楽譜は現存しない。
1782年、フォン・ゲミンゲンはウィーンに移住したが、この男爵の誘いで、モーツァルトは1784年12月のウィーンの分団〈善行〉に入団している。
この〈善行〉のグランドマスターが、フォン・ゲミンゲン男爵であった。また彼は、〈イルミナティ〉の指導的立場の地位にもいた。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ピアノ協奏曲(K459)
1784年、ウィーンで作曲された。
一気に書かれた6曲のピアノ協奏曲の最後の作品で、モーツァルト自身がピアニストとして演奏するために作曲されたものである。
『モーツァルトの血痕』 辞典
フリーメーソン・ロッジ〈善行〉
<Zur Wohltätigkeit>
ウィーンにあったロッジの一つ。
外交官のオットー・ゲミンゲンが大親方を勤めていた。
モーツァルトは1784年11月に入会許可申請書を提出し、12月14日に入会が認められた。
ロッジにはそれぞれ特色があり、例えば〈授冠の希望〉ロッジは貴族たちの集まり、〈聖ヨセフ〉は商業的なブルジョワの集まりであった。モーツァルトが所属した〈善行〉は、経営者が43%、大学教授が12%、芸術家は9%という比率だった(1785年時点)。
『モーツァルトの血痕』 辞典
フリーメーソン・ロッジ〈真の融和〉
<Zur echt Eintracht>
1781年3月12日、〈授冠の希望〉から分離する形で15人のメンバーから出発した。
創立時り大親方は裁判官のイグナーツ・フィツシャーであったが、1782年3月9日、イグナーツ・フォン・ボルンが大親方となった。一時は200人を超えるメンバーを擁した。
モーツァルトの所属した〈善行〉とボルンの〈真の融和〉はイルミナティのメンバーが多く所属し、ボルンによるセミナーやワークショップなども行われていた。
1784年にウィーンを訪れたフリードリッヒ・ミュンターはこう証言している。
「ボルンのロッジ全体が学術アカデミーとなっている。ウィーン在中のイルミナティの側にいるエリートたちの総ての人たちが、このロッジと、ゲミンゲンが主催する〈善行〉に属している」。
『モーツァルトの血痕』 辞典
モーツァルトとイルミナティ
シカネーダーの証言を裏ずけるもとして、キャサリン・トムソン著、湯川新、田口孝吉・訳『モーツァルトとフリーメーソン』に、このような記事がある。
「無論、この資料が彼が〔啓明団〕の一員であることを意味するに足るものではないが、彼がフリーメーソンとして自ら参入式に歩む前に、啓明団の会合に列席していたことを示す証拠は残されている。地質学者ローレンツ・ヒューブナーの1792年執筆の報告によれば、啓明団の会合が、ザルツブルグ近郊のアイゲンにある人里離れた美しい洞窟〈今日『啓明団の洞窟』として知られる場所〉で夜に開催された際、啓明団の指導者の一人、ギロウスキー伯爵が『知人のフォアマン、モーツァルト、パザリーニを連れて』列席した」
『モーツァルトの血痕』 辞典
オットー・フォン・ゲミンゲン=ホルンベルク
(Otto Freiherr von Gemmigen-Hornberg)
(1755~1876)
男爵。マンハイムの外交官。モーツァルトのパトロンの一人だった。
彼には文才があり、モーツァルトがこの、フォン・ゲミンゲン作の『ゼーミラミス』をテキストとしたメロドラマの一部に曲をつけることを試みたことは知られるが、未完の楽譜は現存しない。1782年、フォン・ゲミンゲンはウィーンに移住したが、この男爵の誘いで、モーツァルトは1784年12月のウィーンの分団〈善行〉に入団している。この〈善行〉のグランドマスターが、フォン・ゲミンゲン男爵であった。
また彼は、〈イルミナティ〉の指導的立場の地位にもいた。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ゲオルグ・ヨーセフ・フォーグラー
(Georg Joseph Vogler)
(1749~1814)
ドイツの作曲家、ヴァイオリスト、器楽製作者、そしてカール・テオドールの宮廷教会の神父でもあった。テオドールのためのバレエ曲などを作曲し、宮廷楽団の副楽長の地位にあった。モーツァルトがマンハイムを訪れた際、フォーグラーが訪問したが、音楽理論をめぐって激しく対立した。
モーツァルトは彼のことを「哀れな音楽道化」と酷評し、嫌っていた。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデル
(George Frideric (Frederick) Handel)
(1685~1759)
ドイツ生まれのイギリスの音楽家。ハレ大学で法律を学ぶが、ハレ大聖堂のオルガン奏者となり、ハンブルグでオペラの作曲を始める。21歳でイタリアに遊学。カンタータを多数作曲する。1710年以降はイギリスで活躍。後期バロック音楽の大家となる。
代表作に、管弦楽『水上の音楽』『王宮の花火の音楽』、オラトリオ『メサイヤ』『ジュリアス=シーザー』など。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・セバスチャン・バッハ
(Johann Sebastian Bach)
(1685~1750)
ドイツの音楽家。オルガン奏者、作曲家。
16世紀より200年続いた音楽家の家系で最も優れた人物で、「大バッハ」、「音楽の父」などと称される。また、ヘンデルと並ぶバロック期最大の音楽家でもある。
バロック音楽の様式の総てを統合、多声的対立法音楽も完成させ、近世音楽の祖ともされる。
代表作に『クリスマス=オラトリオ』『ヨハネ受難曲』『マタイ受難曲』『ブランデンブルグ協奏曲』『平均的グラビア曲集』など。
晩年には『音楽のささげもの』『フーガの技法(未完)』などがある。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヴェンツェル・バール
(Wenzel Reichsgelf parr)
(1744~1818)
伯爵のちに公爵。皇王室侍従であり、帝国郵便大臣であった、父親のヴェンツェル・ヨハン・ヨーゼフ・フォン・バール公爵と同様、音楽愛好家貴族であり、この一家とモーツァルトは1762年のウィーン所訪以来の知り合いであった。父と同じく、皇王室侍従の職にあった。
モーツァルトとは〈盟友〉と呼び合う仲であった。
もともと、フリーメーソン分団《授冠の希望》のメンバーであったが。1785年、オーストリアのフリーメーソンはヨーゼフ二世によって、再編されたが、バール伯爵は、新しく設立された《新たな授冠の希望》の大親方となった。
(『モーツァルト書簡全集』Ⅴ、Ⅵ)
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨーゼフ・フォン・ゾンネンフェルス
(Joseph von sonnenfels)
(1733~1817)
ウィーン大学で国家学、刑法学の教授を務め、2期に渡って同大学の総長も務めた。特に刑法においては、オーストリアの啓蒙時代を代表する法学者でもあった。
父はユダヤ教のラビで、ヘブライ学を学んだが、1734年家族でウィーンに移り住んだころ、カトリックに改宗した。後にオーストリアにおけるユダヤ人解放運動に大きく寄与した。
フリーメーソン〈真の融和〉のメンバーであり、イルミナティにも所属していた。フリーメーソン・ジャーナル』の編集委員でもあった。
この刊行紙では、フリーメーソンに関する重要な論文が掲載されたが、いずれウィーンにフリーメーソンの大ロッジを造ることを目指した、フォン・ボルンの秘書的立場にいるとみられる。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・ネーポムク・エステルハージー・フォン・ガランダ
(Johann Nepomuk Graf Esterhazy von Galantha)
(1754~1840)
ウィーンで一番熱心な音楽愛好貴族のひとりで、フリーメーソン《授冠の希望》の大親方であった。モーツァルトが彼の邸宅で最初に演奏をしたのは、1784年3月1日のことだと記録にある。この月は毎月曜日と金曜日にエステルハージー家で演奏をした。
(『モーツァルト書簡全集』Ⅴ)
『モーツァルトの血痕』 辞典
ゲオルグ・アウグスト・フォン・メクレンブルグ・シュトレーリッツ
(Georg August Herzog von Mecklenburg-Strelitz)
(1748~85)
大公。オーストリア帝国陸軍少将。騎兵第12連隊を率いた。ウィーンのフリーメーソン分団《三羽の鷲》のマイスター。オランダの象教教団騎士。
85年11月6日、ハンガリアのテュルナウで死亡。
モーツァルトは彼とフランツ・エステルハージー伯爵の死に対して『フリーメーソン葬送音楽』を捧げている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
エステルハージー家
(Esterházy)
17世紀から、ハプスブルグ帝国、オーストリア=ドイツ帝国における大地主で事業家。ワインの製造でも有名である。最初は下層の貴族だったが、カトリック教会とハプスブルグ家への絶対的忠誠によって、その地位を高め、揺るぎないものとした。オーストリア皇帝から侯爵位を授けられ、オーストリア東部にあるアイゼンシュタットを本拠地とした。
フランツ・リストの父はエステルハージー家のチェリスト、ピアニストとして仕え、シューベルトはエステルハージー家の音楽教師をしていたこともあった。
エステルハージー家紋
『モーツァルトの血痕』 辞典
ニコラウス・エステルハージ
(Nikolaus Fürst von Esterházy)
(1765~1833)
二人はハイドンの雇い主である。
侯爵は最初のハイドンの雇い主であり、オーストリア軍元帥であった。
1757年コリンの戦いで勝利した後、エステルハーザーに宮殿を建設。1761年ハイドンは宮廷楽団の副楽長として活躍した。次いでハイドンの雇い主となったのはエステルハージー・アンタル(1738~1794)だったが、音楽に興味がなく、楽団は解散。アンタルの死後、ニコラウス・エステルハージーが再びハイドンを呼び寄せ、宮廷楽団を復活、ハイドンは楽団長となった。彼はハイドンの有力なパトロンとなり、ハイドンは死ぬまで彼に仕えた。
ニコラウスは古典宗教音楽を好み、老ハイドンは6曲のミサ曲を作曲している。
『モーツァルトの血痕』 辞典
カール・ルードヴィヒ・シュミット
(Karl Ludwig Schmid)
(1740頃~1814)
モーツァルトと知り合ったのは、ザルツブルグにいた頃、来演した一座の座長だった。
自らフリーメーソン分団《聖ヨセフ》を設立。後に《樫忍不抜》分団のメンバーになる。ザルツブルグ滞在中、彼は同地のイルミナティのロッジ《予見》を訪問している。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・フィリップ・コーヴンツェル
(Johann Fhilipp Cobenzl)
(1741~1810)
伯爵。オーストリア代表として、1779年にテッシェン平和条約を締結した人物で、モーツァルトは1781年7月、伯爵のライゼンベルグにある別荘にたびたび招かれている。
(『モーツァルト書簡全集』Ⅴ)
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・ヤーコブ・フライヘル・ゴンタルト
(Johann Jakob Reichsfreiharr von Gontard)
(1739~1819)
銀行家。プロテスタントであったが、ウィーンの社交界で重要な役割を果たしていた。
フリーメーソン、ウィーンのロッジ《授冠の希望》のメンバーであった。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・バプティスト・フォン・ブートーン(Johann Baptist Freiherr von Puthon)
(1744~1816)
卸商人。工業家。ウィーン国立銀行頭取。ウィーンのもっとも重要な実業家の一人。音楽愛好家の一族で、母のエーファ・バルバラはとりわけ優れたピアノフォルテ奏者であり、夫人のユーリエは、マンドリンに長じていた。
フリーメーソンで、プラハの《三つの授冠の星》のグランドマスター。後にウィーンの《三羽の鷲》のグランドマスター。
また彼は、オーストリアのフリーメーソン全体の結社の経理責任者でもあった。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・ヴェンツェル・ウガルデ
(Johann Wenzel Reichsgraf Ugarte)
(1748~96)
帝国伯爵。皇王室顧問官から宮中顧問官となり、司法関係の役職を歴任した。また、1791年から翌年にかけては、ブルク劇場とケルントナートーア劇場の両宮廷劇場総監督を務めた。
ヴァイオリンに能くし、モーツァルトとは1775年以来の知り合いであった。
『モーツァルトの血痕』 辞典
コンスタンティーン・フィーリプ・ヴィルヘルム・ヤーコビ
(Konstantin Philipp Wilhelm Jacobi)
(1745~1808)
1778年、プロセイン宮中顧問官兼公使館参事官、国務大臣。ウィーン駐在プロセイン使節。
熱心な音楽愛好家で、モーツァルトの遺作をプロセイン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム二世が購入する手助けをした。
フリーメーソン《善行》のメンバー。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・フリードリッヒ・シュミット
(Johann Ludwig Schmid)
アウグスブルグでベーム一座の俳優兼歌手。1778年に、ドイツ語によるオペラ作品が30曲公演されたが、その運動に脚本家として参加し、『春と恋』などを発表した。モーツァルトの『後宮からの誘拐』もその運動の一環として生み出されたものであった。モーツァルト家とは旧知の間柄であった。
『モーツァルトの血痕』 辞典
エーミリアン・ゴットフリート・フォン・ジャカン(Emilian Gottfriad von )
フリーメーソン《三羽の鷲》のメンバー。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ローレンツ・レオポルド・ハシュカ
(Lorenz Leopold Haschka)
(1749~1827)
ハシュカはウィーン生まれの詩人であった。
ウィーンのフリーメーソンに入団していたが、イルミナティのメンバーでもあった。
フランス革命のさなか、神聖ローマ帝国のもと、不安な情勢にあったことから、政府長官フランツ・ヨーゼフ・フォン・ゾーラウは、国の団結を促すためにと、イングランド賛歌『神よ、国王を護り賜え』を手本として、翌年の皇帝の誕生日に演奏する歌詞を、ジャカンに発注した。同じく作曲は、ヨーゼフ・ハイドンに依頼した。ハイドンはイングランド賛歌を聞き、大いに意識してオーストリア国歌『神よ、皇帝を護り賜え』を完成させた。初演は1797年2月12日、皇帝フランツ2世の誕生日、ウィーンのブルグ劇場で演奏された。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・ミヒャエル・プフベルグ
(Johann Michael Puchberg)
(1741~1822)
度々のモーツァルトの催促に応えて、金銭の用立てをしていたウィーンの豪商である。フリーメーソン分団《真の融和》の財務担当であった。モーツァルトは度重なる借金用立への感謝の意として、彼に『ピアノ三重奏ホ長調』(K524)と『弦楽三重奏のためのディヴェルティメント変ホ長調』(K563)を作曲している。モーツァルト亡きあとは、コンスタンツェが経済的安定をするのを待ってから、借金の返済を要求したという。
(『モーツァルト書簡全集』Ⅰ、Ⅴ)
『モーツァルトの血痕』 辞典
アントン・シュタットラー
(Anton Paul Statler)
(1753~1812)
モーツァルトの友人の一人。皇王室宮廷楽団員でクラリネット奏者。モーツァルトは彼の為に『クラリネット五重奏曲』(K582)『クラリネット協奏曲』(K622)を作曲している。
フリーメーソン〈棕櫚樹〉のメンバーであった。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・ゴットリープ・シュテファニー
(Johan Gottlieb Stephanie)
(1741~1800)
モーツァルトとは1773年の夏にウィーンで知り合う。この時はすでにそーザルツブルグの宮廷劇場で、彼が台本を書いた何篇かの作品が上演されていた。
モーツァルトのジングシュピール『後宮からの脱出』(K384)、音楽付き喜劇『劇場支配人』(K486)は彼が台本を担当している。
『モーツァルトの血痕』 辞典
カール・フリードリッヒ・ギーゼッケ
(Carl Lwdwig Giesecke)
(1761~1833)
本名はヨハン・ゲオルク・メッツラー(Johann Georg Metzler)
アウグスブルグの仕立て屋に生まれるが、校長の推薦もあってゲッテインゲン大学で法学と鉱物学を学ぶ。退学後しばらく旅芸人となるが、1783年シカネーダー一座に入り、喜劇役者となる。『魔笛』にも奴隷役で出るが、裏方の方で才能を発揮した。
後、舞台とは別れを告げ、鉱物研究に本腰を入れる。
1801年、デンマーク王室鉱務監督官に就任、1814年デンマーク国王から爵位を授与、エジンバラ王立協会の会員となり、ダブリン大学の教授として迎え入れられた。
英語名、サー・チャールズ・ルイス・ギーゼッケ(Sir Charles Lewis Geaecke)と名乗り、鉱物学と科学を担当した。
後、『魔笛』の台本のほとんどは自分が書いたと主張した。
ウィーン時代は、モーツァルトと同じフリーメーソン・ロッジ〈善行〉に所属した。
『モーツァルトの血痕』 辞典
アイゲンの森
アイゲンの洞窟
ザルツブルグ郊外南東の端にある、現在は人口10000人の高級住宅地となっている。
アイゲンの森はアイゲン教会の東にあり、、現在はアイゲー・パークとなっている。
アイゲン(Aigen)は、ドイツの古語「アイガン」、持っているが語源であるという。
1402年にザルツブルグ大聖堂の荘園地となり、モーツァルトの時代には、。森から泉や滝、あるいは岩から湧き出る水が癒しの水とされ、宿泊所などが周囲に建っていた。
洞窟は、森を入った渓谷のすぐ上にあり、「Hexenluch」(魔女の洞窟)とも呼ばれている。周りの岩にはノーム、エリフなどと名付けられるが、これはおそらくヴァイスハウプトがここで「イルミナテイ」の会合を開いたことによるものであるとされている。
ザルツブルグ市の『洞窟地籍登録』によると、入り口の高さは5.1メートル、奥行き25メートル。
『モーツァルトの血痕』 辞典
カール・テオドール
(Karl Theodor)
(1724年12月12日 ~1799年2月16日)
ライン宮中伯(在位1743~1799)兼バイエルン選転帝候(在位1777~1799)
ドイツ・バイエルン地方に発生した有力貴族ヴィッテルスバッハ家は、14世紀以降バイエルン家とプファルツ家に分かれていたが、プファルツ家のカール・テオドールがバイエルン選帝候を継承してから統合された。総称してバイエルン家とも呼ばれる。
カール・テオドールはブリュッセル近郊で生まれ、マンハイムで育った。
ライン宮中伯(プファルツ選帝候)時代には、マンハイムをバロック様式の都市とし、科学アカデミーの設立、宮廷楽団をヨーロッパ屈指の実力を持たせるなど、文化、学芸の発展に大きく影響を与えた。また、ハイデルベルグ橋や門、デュッセルドルフのベンラート城を建築し、今も観光名所となっている。
バイエルン王国がイルミナティを激しく攻撃し、1785年3月2日にイルミナティに対する禁令がだされるが、テオドールの名のものであり、その後も勅令は6月9日、8月16日にも発布されている。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1777年に宮廷で音楽界を行い、自らが指揮台に立っている。
だが、1777年、テオドールがバイエルン選帝候に選ばれて、マンハイムからバイエルンのミュンヘンへ移ってからは、マンハイムの全盛期は終わったとされる。ただ、テオドールはバイエルンの統治にはあまり熱心ではなく、やがてバイエルン継承戦争を引き起こすこととなる。
『モーツァルトの血痕』 辞典
コンパスが象徴
フリーメーソンの象徴としてのコンパスと直角定規
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヤキンと呼ばれる握手法
『モーツァルトの血痕』 辞典
掛軸 「親方」
「親方」の会員の教育に用いられる掛軸
『モーツァルトの血痕』 辞典
親方への昇級儀式
親方の儀式図
文中にある親方の儀式が描かれた図
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヒラム・アビフとは、何か?
ヒラム・アビフについての『聖書』の記述
フリーメーソンのキーワードとなるヒラムについて、『旧約聖書』にはどう表記されているのか? 抜粋してみる(『聖書・新改訳』)。
「ソロモン王は人をやって、ツロからヒラムを呼んで来た(列王記Ⅰ・第七章一三節)」「彼はナフタリ族のやもめの子であった。彼の父はツロの人で、青銅の細工師であった。それでヒラムは青銅の細工物全般に関する知恵と、英知と、知識とに満ちていた。彼はソロモン王のもとにやって来て、そのいっさいの細工を行った(同・第一四節)」この後、ヒラムが《ソロモンの神殿》の建築にどう関わり、何を作ったのかが詳しく述べられる。フリーメーソンの重要な象徴となるソロモン神殿の玄関広間の前に、ヒラムが二本の柱を作る様子がある。
「この柱を本堂の玄関広間の前に立てた。彼は右側に立てた柱にヤキンという名をつけ、左側に立てた柱にボアズという名をつけた(同・第二一節)」続いて歴代記にヒラムについて記載される。
「今、私は才知に恵まれた熟練工、職人の長フラム(=ヒラム)を遣わせます(歴代記Ⅱ・第二章一三節)」「彼はダンの娘たちのうちのひとりの女から生まれた者であり、彼の父はツロの人です。彼は、あなたの熟練工とともに、金、銀、青銅、鉄、石材、木材の細工を心得、紫、青、白亜麻布、紅などの製造を心得、彼にゆだねられたあらゆる種類の彫り物を刻み、彼の創案に任されたすべてのものを巧みに設計できることのできる男です(同・第一五節)」
しかしヒラムが《ソロモンの寝殿》を建て終わると、「ヒラムはそのしもべたちを通して、何隻かの船と海に詳しい、しもべたちを彼のもとに送り届けた(同・一八節)」というような記事があるだけで、ヒラムが殺されたという記述は一切無い。つまりは『聖書』の中にソロモン神殿の建築に関わった棟梁ヒラムは確かに存在するが、伝説そのものは『聖書』とは関係の無いところで創作されたといえよう。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ライオンの握手法
『モーツァルトの血痕』 辞典
人間の精神を最高の水準に至らせる理想と実践の場
H・C・ロビンズ・ランドンの『モーツァルト最後の年』に分団に入会する際の試問が掲載されている。引用してみる。
『発見されたフリーメーソンたちの大秘密』という題の、一七二五年にロンドンで印刷された冊子に、次のような「分団に入会する際の試問」が載っている。
問い⇒貴重な宝石はいくつ?
答え⇒三つ。四角な皿、ダイヤモンド、四角。
問い⇒光はいくつ?
答え⇒三方。真東、南、西。
問い⇒それは何を表すか?
答え⇒父、子、聖霊の三位。
…………
問い⇒正メイソンに至る階段はいくつ?
答え⇒三段階。
…………
問い⇒フリーメーソンとしてふさわしい特質【ポイント】はいくつ?
答え⇒ 三つ。友情、忠誠、寡黙。
問い⇒それは何を表すか?
答え⇒すべての正メイソン間の兄弟愛、救済、真実。それによって、すべてのメイソンはバベルの塔において、またエルサレムの神殿の会堂において、その座を定められる。
1723年には他の印刷物にこう書かれていた。
もし親方メイソンになりたかったら、〈三つの規則〉をじゅうぶんに遵守せよ……
『モーツァルトの血痕』 辞典
フリーメーソンの儀式(イニシエーション)
モーツァルトの時代の正規のロッジの入信式の図
『モーツァルトの血痕』 辞典
フリーメーソンの流派
近代フリーメーソンはロンドンの居酒屋クラブ的な集まりから派生したことは先述した通りである。そしてジェームズ・アンダーソンが提起した「フリーメーソン憲章」が規範となって近代フリーメーソンの基礎が成立した。
その後、フリーメーソンはヨーロッパ大陸へと渡り、急速に広まった。フリーメーソンが大陸のインテリ貴族たちに支持された原因の一つは、オランダから世界貿易のイニシアティブを奪い、政治の面でもいち早く議会制度を確立した、先進国としての〈イギリス崇拝〉がヨーロッパ大陸の国々に発芽したことが考えられる。英国風が当時の流行だったのだ。〈英国崇拝〉が最も顕著であったのが、フランスであった。1725年、パリに分団が創設された。翌26年はプラハ、28年マドリードと大陸拡大が始まった。フランスのメーソンは1776年、大東社【グラントリアン】という大結社を作り、フランス革命に関与したとされた。当然、大陸に広がっていく過程で、フリーメーソンの付加価値が誇大に説明され、より神秘のヴェールを綢わせる為の、それなりの歴史や聖職者の伝説が取り込められることになる。ここで注目されたのが、アンダーソンが「フリーメーソン憲章」の元にあるとした『ゴシック憲章』であった。そこで、フリーメーソンの1717年以前の歴史が、『聖書』や古代の伝承、聖職者の伝説、神秘学などから引用されることとなったのである。フリーメーソンの研究を惑わすこととなった、各派の主張には、大まかに次のようなものがある。
■ソロモンの神殿起源説
拡散された古代のユダヤ民族の統合を象徴する《ソロモンの神殿》は、まさに『聖書』における主(天地創造をした唯一神=アドナイ)の、奥義、秘密を納めた神殿であった。この神殿を建築した集団が、フリーメーソンの起源であるとした説。
この集団の親方として君臨したのがヒラムという職人であったと『聖書』に記載されるが、このヒラムがフリーメーソンの中で神格化して行き、《ヒラム伝説》が作られた。《ヒラム》と《ソロモンの神殿》というキーワードは、他の起源説を解く流派の分団も、重要な象徴として取り込んでいる。
■コレギウム起源説
「コレギレム」とは古代ローマ時代の石工集団の一つである。この集団はローマの軍隊に取り込まれて共に英国に遠征する。ローマ軍は撤退したが「コレギレム」は英国に残り、建築術を伝えたという伝説による。「コレギレム」の最低構成員は3人、指導者は「マギステル(親方)」と呼ばれ、建築に関する秘儀を所有していたことが、フリーメーソンの起源になったという説。もっとも「コレギウム」がローマ軍と英国に来たという記録はない。
■エッセネ派起源説
イエス・キリストはユダヤの党派、サドカイ派とパリサイ派を激しく批判したが、同じユダヤの党派のエッセネ派の批判はしていないことから、キリスト教はエッセネ派から枝分かれしたものだという論説が起こった。エッセネ派は聖なる団体であり、その中にはユダヤの神秘主義・カバラが継承されていて、キリストのおこなった数ある奇跡的行為はこのカバラの奥義に基づいたものだとする。またキリストの共同体としての平等、慈善、援助などもフリーメーソンの原則に影響されたという。原キリスト教はエッセネ派で、その流れをフリーメーソンが継承しているという説。
■ギルド起源説
古代のみならず、中世ヨーロッパにおいても重要な集団であった石工職人組合が起源だとする説。シカネーダーが章の冒頭で説明したとおり。
■テンプル騎士団起源説
1776年、アンドリュー・マイケル・ラムゼイがパリのグランド・ロッジで主張した説。テンプル騎士団とは12世紀初当に編成された十字軍の一派である。
十字軍はキリスト教の威信にかけて聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回したが、十字軍が撤退した後も、9人のフランス人騎士が聖地に残り、巡礼に来る信者たちの安全警備の為組織した騎士団があった。ソロモンの神殿があったという《神殿の丘》に近くに宿舎があった為、「テンプル【聖堂】騎士団」と呼称された。テンプル騎士団はやがてヴァチカンに認可され結社化した。彼らは質素と忠義の誓約の元に勇猛果敢な行為を行ったが、故国フランスに戻った騎士たちは、やがて膨大な寄付、略奪を行う暴徒集団と化してしまい、1314年、フランス王フィリップの命により大総長であったジャック・ド・モレーが処刑され、組織は消滅した。だがソロモンの神殿の奥義を引き継いでいたテンプル騎士団の一部残党はスコットランドに逃れ、ヘレドム山に集結し、再び結社を編成した。それがスコットランドのフリーメーソンの起源だと説明される。
ただし、スコットランドにヘレドムなどというは山無く、テンプル騎士団がやって来たという形跡も伝承も無いことから、これは、ラムゼイの全くの創作である。
■薔薇十字団起源説
17世紀初頭にドイツに起こり、英国で思想化された神秘学思想運動結社とされる。クリスチャン・ローゼンクロイツなる人物が創設し、薔薇は錬金術の象徴である自然魔術、あるいは金を溶かす「露」を表すラテン語のros、十字はキリスト自身の象徴、または「光」を意味する古代エジプトの象形文字だともされた。いずれにしても、この不可思議なオカルト団体からフリーメーソンが派生したという説である。しかし一〇六歳まで生きたというローゼンクロイツなる人物は想像上の人物でしかなく、歴史の記述には、テンプル騎士団の由来と関連するところもあり、その真実性も疑われるところである。
(参考 歴史読本『特集ユダヤ=フリーメーソン・謎の国際機関 吉村正和「フリーメーソンの起源」)
『モーツァルトの血痕』 辞典
フリーメーソンとシカネーダー
シカネーダーは1787年、36歳でレーゲンスブルクの分団〈三つの鍵〉に入会申込書を送るも「歓迎はするが異例の申込者」として、半年間その入会は棚上げされていた。どうやら彼は愛人問題でその人格が疑われたと思われる。
入会の動機はやはりモーツァルトの勧めが大きかったようだ。シカネーダーは〈三つの鍵〉に入会した後も、親方までは昇進せず、放蕩のかどで追放されたとも言われるが、シカネーダーの本業は巡業する興行師だったし、行商の商売人たちの入会も認められていたことから、この説よりは、やはり彼のドン・ファン的資質、自分で言ういい男だったが為の、度重なる女性関係のスキャンダルが原因だったのではなかろうか、というのが筆者の考えである。
ただし、シカネーダーは1790年前後にはモーツァルトが所属していた〈新・受冠の希望〉のメンバーであったとする説もあるが、残されている名簿には名前は記載されていない。
『モーツァルトの血痕』 辞典
フリーメーソンの女性ロッジ「養子』
モーツァルトの『魔笛』の解読に関係してくる、女性ロッジが後にみとめられることになる。
詳しくは『魔笛』解読の章にて言及することとなるだろう。
フリーメーソンの女性ロッジ「養子』の入信式を描いた図
『モーツァルトの血痕』 辞典
石工用のエプロン
フリーメーソンのエプロンをつけたアメリカ大統領、
ジョージ・ワシントン
『モーツァルトの血痕』 辞典
フリーメーソン分団の役職
案内役〈ジュニア・ディーコン〉
フリーメーソンの分団を構成する運営役員にも規定がある。分団の流派によってこれも異なるらしいが、吉村正和・著『フリーメーソン』には次のようにある。
マスター=ロッジの中心人物であり、会員によって選出される。ロッジ運営の最高責任者であり、他の役員を任命する権限を持っている。
シニア・ウォーデン=マスターとともにロッジの運営にあたり、マスターが不在のおりにはその代行を務める。
ジュニア・ウォーデン=ロッジへの訪問者がフリーメーソンであるかどうかを確認する。
シニア・ディーコン=マスターとシニア・ウォーデンのあいだの伝令であり、「職人」と「親方」の階位への志願者の案内役である。
ジュニア・ディーコン=シニア・ウォーデンとジュニア・ウォーデンの間の伝令係であり、「徒弟」の階位への志願者の案内役である。
インナー・ガード=ロッジの扉の内側で警備にあたり、志願者が確かにロッジで行われる儀式に参加する資格があるかどうかを確認する。
アフター・ガード、あるいはタイラー=ロッジの扉の外側におり、不審な者がロッジに入ることのないように警備する。
この他に、ロッジでの集会の記録をとる書記、会費などを徴収し管理する会計などの役員がおかれる。
『モーツァルトの血痕』 辞典
儀式の部屋
儀式の部屋における、徒弟の儀式の図
『モーツァルトの血痕』 辞典
ソロモンの神殿
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヤキンとボアズの柱
(Wikipediaより)
『モーツァルトの血痕』 辞典
掛軸 「従弟」
「従弟」の会員の教育に用いられる掛軸
『モーツァルトの血痕』 辞典
ボアズと呼ばれる「徒弟」の握手法
『モーツァルトの血痕』 辞典
テンプル【聖堂】騎士団
テンプル騎士団の紋章
最もポピュラーなマークが描かれている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
『フリーメーソンの喜び』(K471)
変ホ長調のアレグロ方式のカンタータ。
この日行われた祝典の儀式は、「テーブルの儀式」とよばれるもので、テーブルの上に置かれたパンやワインを象徴的に展開するもので、ロッジのメンバーが次々と指名するごとに指名されたメンバーが立ち上がって乾杯の音頭を取り、その都度に食事は中断する。その乾杯の典礼をカンタータ式の音楽としたのが、『フリーメーソンの喜び』である。
『モーツァルトの血痕』 辞典
アマルガム合金法
アマルガムとは、水銀と他の金属の合金の総称で、歯の詰め物などに使われたりして、歯科修復材料として知られている。
錬金術師、鉱山学者としてボルンが考案したのは、アマルガムから金銀を採取する混汞法のことである。これにより金の精錬が可能となる。ヨーゼフ2世によって1784年に正式採用された。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・ヴァレンティン・アダムベルガー
(Johan Valentin Adamberger)
(1740~1804)
テノール歌手。
その歌声は、しなやかで、機敏で、正確であって絶賛された。ドイツ、イタリア、イギリスでは人気があり、ウィーンでも大いに評価を得た。
モーツァルト作曲の『後宮からの誘拐』の初演ではベルモンテを受け持った。後にウィーン宮廷礼拝堂の専属歌手となる。
モーツァルトは彼に、K420『アリア』、K431『レチタティーヴォとアリア』、K471を作曲している。
『モーツァルトの血痕』 辞典
フランツ・ペートラン
(Franz Petran)
教会付司祭で、フランツ・ヨーゼフ・トゥーン伯爵家付きの司祭でもあった。
フリーメーソン『授冠の希望』のメンバーで、詩人でもあった。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨーゼフ2世
(Joseph Benedikt August Johann Anton Michael Adam von Habsburg-Lothringen)
(1765~1790)
神聖ローマ帝国皇帝(在位1765~90)、オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王。
ローマ皇帝フランツ1世と女帝マリア・テレージアの長男で、マリー・アントワネットの兄。プロセイン王フリードリッヒ2世を尊敬し、啓蒙思想の影響を受け、弾圧を受けるフリーメーソンの理解者であり擁護者でもあったが、また、絶対主義の君主であろうともした。その政策と思想は「ヨーゼフ主義」ともいわれ、啓蒙君主を代表するような人だった。
モーツァルトがウィーンにやって来た頃のオーストリアの皇帝はマリア・テレージアで、彼女はモーツァルトを好まず、イタリア・オペラを支持し、サリエリを宮廷音楽にて重宝した。
テレージアが亡くなった1780年ころから、モーツァルトは頭角を現し、ドイツ・オペラを支持するヨーゼフ2世の庇護の元、『フィガロの結婚』『ドン・ジョバンニ』『コシ・ファン・トゥテ』といったオペラを作曲するが、ヨーゼフ2世はモーツァルトが死ぬ1年前に崩御したことが、モーツァルトの晩年に影を落としたという一面はあると思われる。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ベンジャミン・フランクリン
(Benjamin Franklin)
100ドル札
アメリカ合衆国建国の父の独りとして讃えられ、現100ドル札の肖像となっている人物である。70歳で独立宣言の草案を作り、トーマス・ジェファーソン、ジョン・アダムズら5人が調印した。
このようにアメリカ合衆国をイギリスからの独立へ導いた政治家、著述家、物理学者、気象学者であった。避雷針や遠近両用メガネ、グラス・ハーモニカの発明者でもある。
1731年、25歳でニューヨークのフリーメーソン、「セント・ジョンズ」ロッジに入団。34年にグランド・マスターとなる。
752年、フィラデルフィアのメーソンズ・ホールの建築にも関わっていた。
奴隷を所有しながら奴隷制度廃止も訴えた。
84歳で死去。葬儀は国葬であった。
『モーツァルトの血痕』 辞典
マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ
(Maria Theresia Elisabeth Philippine Luise Josepha Johanna)
(1717~80)
神聖ローマ皇帝フランツ一世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公、ハンガリー女王、ベーメン女王でもある。一般では「女帝」として扱われている。
オーストリア系ハプスブルク家男系の最後の君主で、彼女以降代からは正確には、ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家である。
一般に「女帝」と呼ばれ、その言動、権力、振る舞いも女帝そのものであったが、実際には皇帝に即位したことは一度もない。
ただ、ハプスブルク家の領国と家督を相続したのはテレジア本人であるため、彼女の肖像画には(ハプスブルク家が事実上世襲し続けていていた)神聖ローマ皇帝の帝冠が頻繁に添えられており、少なくとも領国内では「女帝」視されていた。
『モーツァルトの血痕』 辞典
『東方見聞録』著者。マルコ・ポーロ
(Marco Polo)
13世紀半ば、ヴェニスの商人マルコ・ポーロ(右画像。1254~一324)が、1271年、父、叔父とともに陸路で中央アジアを目指した。そして当時、元であった中国の都市大都(現在の北京)に到着。フビライ・ハーンに仕え、17年間滞在した。後に海路でベネチアに帰国。
ジェノバとの戦いで捕虜となり、獄中で書いたのがその旅行記『イル・ミリオーネ』つまりヨーロッパ人たちの知らないアジア、特に極東についての「見聞録」を記した。
これは極東の地理と知識をヨーロッパ人に初めて与えることになったが、同時にこれは、海の果ての地理書として理解されたようである。ポーロは元【げん】帝国のフビライ・ハーン皇帝に接見し、使節となったといが、日本へは立ち寄らなかった。しかし、伝聞により、日本についても紹介した。これがヨーロッパに伝えられた最初の日本とされている。日本はチパング、あるいはジパングという名で記され、これがジャパンの語源となる。これは当時の中国人が漢字の「日本国」を読んだ時の譌言葉だと言われている。
青木富太郎・訳『マルコ・ポーロ 東方見聞録』より少し引用してみる。
「チパングは東海にある大きな島で、大陸から二千四百キロの距離にある。住民は色が白く、文化的で、物資にめぐまれている。偶像を崇拝し、どこにも属せず、独立している。黄金は無尽蔵にあるが、国王は輸出を禁じている。しかも大陸から非常に遠いので、商人もこの国をあまりおとずれず、そのため黄金が想像できぬほど豊富なのだ。
この島の支配者の豪華な宮殿についてのべよう。ヨーロッパの教会堂の屋根が鉛でふかれているように、宮殿の屋根はすべて黄金でふかれており、その価値はとても評価できない。宮殿内の道路や部屋の床は、板石のように、四センチの厚さの純金の板をしきつめている。窓さえ黄金でできているのだから、この宮殿の豪華さは、まったく想像の範囲をこえているのだ。
バラ色の真珠も多量に産する。美しく、大きく、円く、白真珠と同様、高価なものである。この国では死体は土葬にされることもあるし、火葬にされることもある。土葬にするときは真珠を口の中に入れる習慣になっている。その他の宝石も多い。
現代の大ハーンのフビライは、この島がきわめて豊富なのを聞いて、占領する計画をたてた……」
『モーツァルトの血痕』 辞典
ジョナサン・スウィフト
(Jonathan Swift)
(1667~1745)
ダブリン生まれのイングランド系アイルランド人。
風刺作家、随筆家、詩人、司祭。
アイルランドの低開発、貧困はイギリス政府の経済政策にその原因があるとし、支持していたホイッグ党(王政の制限、人権保護を主張する後の英国自由党、あるいは自由民主党の前進)から、トーリー党(王政存続の保守派)へ鞍替えし、党のための執筆活動を行い、英国でももっとも辛辣な風刺作品を書く作家となった。『ガリバー旅行記』もそういった風刺や理想郷への思いがこもった作品であるといえよう。
司祭には生活の為になったというが、晩年はダブリンへ戻り、聖パトリック大聖堂の首席司祭となり、死ぬまで務めた。
『穏健なる提案』『ステラへの消息』『ドレイピア書簡』などの作品がある。
『モーツァルトの血痕』 辞典
フリードリッヒ・ヴィルヘルム2世
(Friedrich Wilhelm II)
フリードリッヒ大王
(1712~1786)
プロセイン王国のホーエンツツォルレン家の国王(在位1740~86)
暴君といわれたフリードリッヒ・ヴィルヘルム1世の長男。
哲学を好み、フルートを奏でる繊細な青年だったが、父の暴力、横暴に耐え兼ね、親友と国外逃亡を試みるも国境近くで捕縛。激怒した父、王より国家反逆罪として処刑を命じられたが、直前に恩赦されるも親友は処刑されるという事件があった。
以来、フリードリッヒは父に状僕な態度をとるようになり、国王への道を歩み、1740年に即位した。即位当時から戦争に明け暮れ、ハプスブルグ軍との戦い、そして七年戦争での勝利を得ると、領土を拡大すると、ドイツの主導権を握るようになり、その全盛期には「フリードリッヒ大王」と呼ばれるようになった。
一方で哲学好みは変わらず、フランスのヴォルテールなどと親交を持ち、啓蒙思想の洗礼を受け、フランス文化に心酔した。だがドイツの文化は嫌ったという。
フリーメーソンに入った経緯はシカネーダーが言っていることにほぼ間違いない。また、フリードリッヒ大王がフリーメーソンを私物化しようとしたことは、後にイグナツーツ・フォン・ボルンによって明らかになる。
『モーツァルトの血痕』 辞典
『ガリバー旅行記』
『ガリバー旅行記』初版
1726年ロンドンのモットー書店より出版された。
著者はジョナサン・スウィフト(1667~1745)という作家であったが、これはシンプソンという編集者がガリバーという男から受け取った原稿を出版したという“てい”で世に出た。
『ガリバー旅行記』は、小人の国《リリパット国》への冒険譚が一般に有名だが、ガリバーは巨人の国《ブロブディンナグ国》、空飛ぶ円盤のような国《ラピュータ国》、馬人の国《フウイヌム国》など架空の国を旅してまわるが、なぜか唯一の実在の国、日本にも短期間だが滞在したということになっている。ガリバーは日本国皇帝(江戸で会ったと言っているので、これは徳川将軍のことか?)より金貨を四四四枚、赤いダイヤを一個賜り、イギリスで売ったら千百ポンドで売れたとあるが、これは黄金の国ジパングからの拝借かも知れない。
ガリバーは南東部のザモスキという小さな港町から首都江戸へ赴き、皇帝に拝謁した後ナンガサク(長崎)へ着き、そこからアムステルダムへ帰港したとある。スウィフトは全く航海旅行をしたことがなく、全ては空想の産物だと思われるが、多少の日本についての知識はあったようだ。その知識はどこから仕入れたものだったのであろう?
筆者はオランダ商人との接触が考えられると思う。 (参考 スウィフト著/平井正穂訳『ガリバー旅行記』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
クレメンテ12世
クレメンテ12世が1738年にフリーメーソンを禁止した勅令書『In Eminenti』の日本語訳。
訳は聖ピオ十世司祭・トマス小野田圭志神父。
クレメンテ、司教、天主の下僕(しもべ)らの下僕(しもべ)はイエズス・キリストの全ての信徒たちに、挨拶と使徒的祝福を与える。
天主の御摂理によって、使徒職の最高位にあげられ、不肖である朕は、自分に委ねられた司牧的な見張りの責務に従い、天主の聖寵に常に助けられつつ、朕の配慮の全ての熱心をもって、誤謬と悪徳との侵入を閉ざしながら、何よりもまず正統な宗教の完全性を保守し、カトリック世界から現代の非常に困難な時代において、混乱の危険を追い出すに役立つことが出来ること関して、朕は注意を払った。
朕は、公然たる噂を耳にし、外国で、一般的にフリーメーソンの名で、或いはそれぞれの言語において様々な名称で、呼ばれている、或る諸協会、集団、集会、会合、小さな集まりなどが日毎に拡大しつつあると知らされた。それらにおいて、人々は、宗派やセクトを問わず、自然な誠実さを装いつつ、各々が自ら決めた法規と規定に基づき、緊密かつ極秘の誓約によって互いを結び付けて拘束し合い、秘密の闇の内に行う物事を一切明らかにせぬことを聖書に基づく誓いとして、それに違反すれば非常に重い罰を受けると沈黙を不可避のものとしている。
ところが、かかる犯罪の性質は、自ずと叫び声を上げ、自分の正体を発見させ告発させ、隠し通せないものであり、前述したこれらの諸団体や集まりらは、信徒らの精神に強い疑惑を引き起こし、誠実かつ賢明とされる人々のもとでは、かかる団体に入会することは、すなわち「邪悪」と「悪意」の印であるとされるほどである。何故なら、もしも彼らが悪を犯さなかったならば、これほど光を嫌うことはなかろうからである。またこの疑惑はあまりにも増大し、複数の国家では、上述のこれらの団体は、王国の治安を脅かすものとして、既に禁じられ追放されて久しい。
したがって、朕は、このようなの諸団体あるいは集まりから普通に結果する大いなる諸悪、世俗国家の安寧にとってだけではなく、霊魂の救いにとってもの悪を鑑み、それにより、これらの団体は国法と教会法とも全く相容れ得ないことを見ている。
天主の御言葉の命により、朕は、日夜を問わず、主の家族を、忠実かつ賢明な下僕として、警戒する責務が課せられている。この種の人々が、泥棒のように家に侵入しないように、また、狐のように葡萄畑を荒らすことのないように、単純な人々の心を堕落することがないように、知らず知らずの内に毒の針で刺されないように。罰せられずに犯されるだろうような邪悪へ大きく口を開けることができる広い道を塞ぐために、また朕に知られたその他の正しいかつ道理に適った理由のために、聖なるローマ教会の兄弟なる諸枢機卿の意見を受け、朕も自発的に、確実な知識に基づき、熟慮の結果、朕の使徒的な全権能をもって、フリーメーソンの名前で呼ばれている、或いは、別な名称のもとで知られている上述のこれらの諸集団、諸集会、会合、グループ、集まりなどを排斥し、禁止することを決定し宣言し、永続に有効なるこの回勅をもって、朕は排斥し禁止する。
したがって、聖なる従順の徳により、身分・階級・地位・職位を問わず、世俗者・聖職を問わず、聖職者なら在俗者・修道士を問わず、イエズス・キリストの総ての各々の信徒らに、如何なる口実のもとにおいてであっても、それがどのように色づけされていても、上述のフリーメーソンあるいはその他の名称で呼ばれる諸団体に入会することも、これらを宣伝することも、これらを維持することも、自分のところにこれらを受け入れることも、敢えて行うことを固く禁止する。
オープンにでも秘密にでもやり方を問わず、直接・間接を問わず、自分自身で・第三者を通じてを問わず、どのようなやり方であったとしても、他人に勧めることも、そうするように挑発することも、これらの団体に登録させるように約束することも、その会員になることも、どのようなやり方であれ助けるのも、援助するのも維持するのも、禁止する。かかる諸集団、集会、会合、集まりなどに絶対に関わることがないように絶対的に朕は禁止し、これに違反する者は、だれであれ、自動的に、他の追加の宣言なしに、破門の刑をうける。破門された者は、臨終の寸前に臨んだ場合を除いて、朕或いは朕の後継者なるローマ教皇以外に、誰からも赦しを授かることできない。
さらにまた、司教らは、高位聖職者および教区長も、異端諮問担当者らも、違反者に対して、速やかに報告と処分とを決定するように命令する。身分・階級・地位・職位を問わず、異端の強い容疑者として、叱責し、相応しい刑罰をもって処罰するように。朕は、上記の違反者らに対して告発し処分するする自由な権能、彼らを叱責しふさわしい罰で処罰し、必要であればそのために世俗の権力に助けを求める権能を彼らに与える。朕はまた、この原本の他に、印刷されたものでも、公証人に押印されたものでも、聖職資格公証人に印鑑されたものを、原本のと同じく扱うことを望む。
朕の断言、排斥、命令、禁止、厳禁のこの勅書に、誰も軽率な行動により、反対あるいは違反することは、如何なる者にも許さるるべからず。もしも、誰かが、これに敢えて反するならば、全能なる天主と至福なる使徒聖ペトロと聖パウロの怒りを被ることになると知るように。
ローマにて、聖マリア大聖堂の傍らにて、私たちの主の御托身
1738年4月28日、朕の教皇在位8年目
クレメンテ十二世、教皇
『モーツァルトの血痕』 辞典
ハプスブルグ家
シェーンブルン宮殿
ヨーロッパの歴史を語るには、二つの基本があるといわれる。一つはキリスト教で、もう一つは王朝である。フランスのブルボン朝、イギリスのスチュワート朝、イタリアのメディチ朝、ロシアのロマノフ朝……。その中でも十一世紀から二十世紀初頭まで約七百年にわたってヨーロッパの政局と文化、芸術に関わり、しかもその領土は、オーストリアを中心にドイツ、ポルトガル、ポーランド、イタリア、一時はスペインにまでも及び、ヨーロッパ国家連合としての中心にあったのは、ハプスブルク家だけである。
ハプスブルクが王朝となった始祖は、一二七三年、神聖ローマ帝国の皇帝にルドルフ一世が即位した時だとされている。十六世紀前半のカール五世の時代になると、ヨーロッパ大陸ではフランスとヴァチカンを除くとほとんどがハプスブルクの支配下にあったのである。
ハプスブルク王朝は「太陽の没することのない帝国」とも言われた。またオーストリアとハプスブルクは同義であったのだ。ハプスブルク家がヨーロッパの領土を手中していく過程は、戦争ではなく、政略結婚であった。
カール五世がスペイン王になったのは美公といわれたフィリップをスペイン王女と結婚させたことから始まったのである。
ただ失敗は、マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットであった。ハプスブルク家とブルボン家の親善の望みであったが、フランス革命の中、アントワネットの命はギロチンの刑で露と消える。
十八世紀半ば、初の女帝マリア・テレジアの時代となる。テレジアはオーストリアの近代化を推し進め、その理念は長男ヨーゼフ二世、弟のレオポルドへと受け継がれる……。この時代こそが、近代ヨーロッパの歴史を語る三つめの基本となった、フリーメーソンの時代でもあったのだ。
ヨーロッパの歴史を語るには、2つの基本があるといわれる。
一つはキリスト教で、もう一つは王朝である。フランスのブルボン朝、イギリスのスチュワート朝、イタリアのメディチ朝、ロシアのロマノフ朝……。
その中でも11世紀から20世紀初頭まで約700年にわたってヨーロッパの政局と文化、芸術に関わり、しかもその領土は、オーストリアを中心にドイツ、ポルトガル、ポーランド、イタリア、一時はスペインにまでも及び、ヨーロッパ国家連合としての中心にあったのは、ハプスブルク家だけである。
ハプスブルクが王朝となった始祖は、1273年、神聖ローマ帝国の皇帝にルドルフ1世が即位した時だとされている。16世紀前半のカール5世の時代になると、ヨーロッパ大陸ではフランスとヴァチカンを除くとほとんどがハプスブルクの支配下にあったのである。
ハプスブルク王朝は「太陽の没することのない帝国」とも言われた。
またオーストリアとハプスブルクは同義であったのだ。
ハプスブルク家がヨーロッパの領土を手中していく過程は、戦争ではなく、政略結婚であった。カール五世がスペイン王になったのは美公といわれたフィリップをスペイン王女と結婚させたことから始まったのである。ただ失敗は、マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットであった。
ハプスブルク家とブルボン家の親善の望みであったが、フランス革命の中、アントワネットの命はギロチンの刑で露と消える。
18世紀半ば、初の女帝マリア・テレジアの時代となる。
テレジアはオーストリアの近代化を推し進め、その理念は長男ヨーゼフ2世、弟のレオポルドへと受け継がれる……。
この時代こそが、近代ヨーロッパの歴史を語る3つめの基本となった、フリーメーソンの時代でもあったのだ。
画像のハプスブルク家の建造物、シェーンブルン宮殿はマリア・テレジアが財政を考慮し、塗装を金から黄色にした。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ブラウンシュヴァイク公国
ブラウンシュヴァイク公国・領域図(Wikipediaより)
当時は神聖ローマ帝国ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公領。
19世紀になってブラウンシュヴァイク公国となった。
11世紀から近世まで存続した。
『モーツァルトの血痕』 辞典
十字軍
11世紀から15世紀にかけて、西ヨーロッパのキリスト教徒による東方遠征軍のことを指す。きっかけは、当時のローマ法王ウルパヌス2世が「イスラム教徒が聖地エルサレムを不法占拠して、キリスト教徒を虐殺している、奪還すべきだ」と会議の席上で訴えたことから始まったとされる。
目的は聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還するということだったが、8回の遠征は成果を上げられず、聖地奪還は出来なかった。騎士のほとんどは訓練も受けない一般の志願兵だった。
テンプル騎士団は、これを機に発足した。テンプル騎士団については次の項目。
『モーツァルトの血痕』 辞典
テンプル騎士団
1118年、十字軍で遠征して来た9人の騎士がエルサレムにそのまま居残り、テンプル騎士団を結成する。その目的は、当地でキリスト教徒が襲われた時に彼らを守護するというものであった。初代団長は、コーグ・ド・パイヤンであった。
テンプルとは、古代のソロモンの神殿があったとされる場所に本部を置いたことから神殿(テンプル)が名付けられたのである。
彼らはよく訓練された騎士で、勇敢で高潔であるという評判が高まり、カトリック教会からも正式に認められたことから、志願兵が殺到し、組織も巨大化した。
彼らはイスラム教徒とも親交を結び、学者から教えを受け、この時、錬金術、神秘学、数秘学、象徴学といったオカルトの知識がもたらされた。ユダヤの神秘学もここに含まれていた。
しかし、財政難に陥ったフランス王フィリップ王は、テンプル騎士団に蓄えられた財産を取り上げる為に、ローマ法王を取り入り、彼らを拿捕。裁判にかけて、当時の団長ジャックモレーたち全員を火あぶりの刑に処した。
1311年、テンプル騎士団の活動は停止した。
幻のエルサレム奪回
『モーツァルトの血痕』 辞典
ゴットホルト・エフライム・レッシング
(一七二九~一七八一)
ユダヤ系ドイツ人。思想家、劇作家、批評家。特にドイツを代表する啓蒙主義者。
それまではドイツにおいてもフランス古典主義が主流だったものを、ゲーテ、シラーを紹介しながらドイツ文学の解放を目指した。劇作家としては、三つの指輪の例えによって人種的偏見の打破と宗教的寛容を説いた『賢者ナータン』などが、代表作としてある。
彼は作曲家のメンデルスゾーン(あの『結婚行進曲の作曲者』)の祖父にあたる、ユダヤ系啓蒙主義者モーゼス・メンデルスゾーンと親しく、『賢者ナータン』のモデルはこのモーゼスであると言われている。
一七七八年にハンブルクでフリーメーソンとなり、フリーメーソンに関する対話集を五冊出版した。〈啓明団〉のゾンネンフェルスとも親しかった。
(一部引用 少学館『世界原色百科事典』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
『エルンスとトファルク フリーメーソンのための対話』
フリーメーソンは、秘密めいている……。
レッシングはこの思いを基に『古き原資料から導かれ、論拠つけられたフリーメーソンの真の教団』を執筆、ハンブルグにある学術系の出版社に持ち込むが、フリーメーソンであったボーデによって出版は拒絶され、ボーデからは「フリーメーソンに入る以外、出版は許可できない」と言われたという。
レッシングはボーデに推薦をもって、フリーメーソン・ロッジに入団を申し込むも拒否され、ようやくハンブルグのロッジに加入が許されるも、原稿は戻ってこず、又秘密めいたロッジの儀式にも嫌気がさし、ボーデとも決裂した。
そして1778年から80年にかけて、非メーソンの出版社から公刊したのが『エルンストとファルク フリーメーソンのための会話」であった。エルンストとは明らかにレッシング自身を投影した人物であり、ファルクは、おそらくフリーメーソンの最高機密を伝授された人間である。エルンストはまだフリーメーソンに入っていない……。
フォルクは示唆する。フリーメーソンは、今知られているものよりはるかに古く、大きな隠れた目的がある。しかし今のフリーメーソンは、その「ごっこ」をしているに過ぎない。彼らに何も期待はしない。本当のフリーメーソンは外側の形態には存在しない。肝心なのは、ロッジに入ることではなく、フリーメーソンが目的とする高次な人間となり、自由な「世界市民』になることである。その世界市民とは、一つの世界国家である。するとそこに、多様な体制や宗教、需要が破棄されることなく統合される。つまり、世界に一つのロッジが望まれるのである……。
このような考えはフリーメーソンからは危険視され、出版の指し止めも要求されたが、レッシングの知らないところで発刊されていたという。
『モーツァルトの血痕』 辞典
神聖ローマ帝国
神聖ローマ帝国 国旗(Wikipedia)
神聖ローマ帝国 領域(Wikipedia)
イタリア半島を中心とした、あのローマ帝国を思わせるが、神聖ローマ帝国は「ドイツ人のための、古代ローマの伝統とキリスト教の権威を統合したドイツ帝国」を意味する。神聖という形容詞は15世紀頃から称するようになり、皇帝権はドイツ民族以外からは出さないことを表明し〔ドイツ国民の神聖ローマ帝国]が正式名称であった。
1438年からハプスブルク家による世襲制となっていたが、16世紀、宗教改革を経たあたりから、領邦国家の体制が強化されていき、18世紀になるとヴォルテールが「神聖でもなくローマでもなく、帝国でもない」と指摘した通り、帝国とは名ばかりで実態もなくなっていった。そして1906年、ナポレオン勢力下においてフランツ2世が帝位を辞退し、8世紀にわたった神聖ローマ帝国は終篶を迎えたのである。
(一部引用 少学館『世界原色百貨辞典』)ネスタ・H・ウェブスター著/馬野周二訳『世神聖ローマ帝国』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
フランツ・フォン・シュテファン公爵
(Franz Stephan von Lothringen)
フランツ1世
フランツ1世。神聖ローマ帝国ローマ皇帝(在位1745~65)、ローマ皇帝、ロートリンゲン公、トスカカーナ公。
マリア・テレジアの夫。この婚姻により帝位を得たが、自分が領していたロートリンゲン公国はフランスに譲ることとなった。マリア・テレジアも自分の権力を夫に譲ることはなく、代わりに皇帝の座を約束した。政治には向かなかったようだが、財政、経営には手腕を発揮し、戦争で疲弊し財政難となったオーストリアの国債を発行せねばならなくなった時、その保証人となるだけの財産は持っていたのである。
マリア・テレジアはフリーメーソンを嫌ったが、彼はフリーメーソンを擁護した。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ロートリンゲン公国
ロートリングケン公国はドイツ語(Herzogtum Lothringen)で、フランス語ではロレーヌ公国(Duché de Lorraine)である。
現在のフランスのロレーヌ地方北東部、ルクセンブルグ及びドイツの一部にかかる歴史的公国である。この地を巡ってはドイツとフランスの間で、しばしば紛争が起こっている。
ロートリンゲン公国・国旗
18世紀半ばのロレーヌ公国と現在の市町村(フランス語Wikipedia)
ロートリンゲン公国・地図
『モーツァルトの血痕』 辞典
トビアス・フォン・ケプラー
(Tobias Philipp Freiherr von Gebler)
(1726~1786)
モーツァルトが作曲した英雄劇「エジプト王タモス』の作詞者として知られる。本業は、オーストリア宮廷宮内庁枢密顧問兼副長官であったが、その文才は求められていた。
モーツァルトとケプラーを引き合わせたのは、動物磁気学(メスメリズム)で知られるメスマー伯爵であったという説もある。
『モーツァルトの血痕』 辞典
インゴルシュタット大学
1472年、インゴルシュタットに創設され、インゴルシュタット大学となるが、ナポレオン戦争後の1826年に、バイエルン王ルードウィッヒ1世により、ミュンヘンに移転再創設。その際、ルードウィッヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンという名称に変更された。
略称してミュンヘン大学とも呼ばれる。
ヨーロッパでも伝統のある大学で、2019年THE世界大学ランキング32位となっている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
薔薇十字会
薔薇十字会がフリーメーソンの右派なら啓明団は左派、といわれるほど、似ていながら対極に位置した結社。世間の流れを利用し、イエズス会に加担して、啓明団の弾圧に手を貸していた。その実態について、(ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳『魔笛・秘教オペラ』に分かりやすい解説がある。引用してみる。
「1756年頃ドイツで設立された『薔薇十字団』(これは、160年頃に結成され、ヴァレンティン・アンドレーエを首脳とする、例の『薔薇十字団』とは一応区別する必要がある──訳者)は、「啓明結社団」と同様、初めはフリーメーソン結社の外にあったが、やがて何らかの形でそれと離れ難いほど混合して一体となった。なかでもそれが177年に結成されたウィーンで顕著であった。薔薇十字団は聖堂【テンプル】騎士団の子孫を自称し、錬金術と神智学の奥義を究めていた。やがてこれに対抗する結社がいくつも生まれた。その主なものは、隠秘学を奉じ疑似カトリック的立場にある『聖職聖堂騎士団』、錬金術師で交霊術師でもあったツィンネンドルフの『スウェーデン体系』結社、そして今度はフリーメーソン結社に完全に統合された『厳格な戒律』結社だった。薔薇十字団は、啓明結社と激しく対立し、その反教権主義も認めることはなかった……」
薔薇十字会の会員でモーツァルト関係の人間では、ウィーンで知り合った医師で電気療法家で催眠術理論の権威、フランツ・アントン・メスマー博士がいる。彼は薔薇十字会の中では魔術師として君臨していたという。
モーツァルトはまだ十代の頃、彼の依頼で一幕もののジングシュピール『バスティアンとバスティエンヌ(K50)』を作曲している。
(『モーツァルト書簡全集Ⅱ』)
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ヨーゼフ2世、フリーメーソン説
シカネーダーが言う、皇帝ヨーゼフ2世がフリーメーソンであったという明確な証拠は、実は無い。
公開されているフリーメーソン名簿に彼の名前が発見できないからである。しかし、1785年以前のヨーゼフ2世のフリーメーソンへの接し方、母であるマリア・テレジアの意向を無視してまでも執拗に擁護した態度と、プロシアのフリードリッヒ大王を啓蒙専制君主と尊敬する思考から見て、父がそうであったように、彼もフリーメーソンであった可能性はある。
あるいは、1785年12月にフリーメーソン分団を再編成する勅令を発布した時点で、自らの名を名簿から除外した可能性はなかったのだろうか?
『モーツァルトの血痕』 辞典
オットー・フォン・ゲミンゲン=ホルンベルク
(Otto Freiherr von Gemmigen-Hornberg)
男爵。
詳細は、第四章 18世紀のフリーメーソン(中編)をご覧ください。
『モーツァルトの血痕』 辞典
『ドン・ジョバンニ』から
「あの恩知らずが私を裏切った」
K527
作曲、ウルフガング・アマデウス・モーツァルト
『モーツァルトの血痕』 辞典
『フィガロの結婚』から
「序曲」
K442
作曲、ウルフガング・アマデウス・モーツァルト
『モーツァルトの血痕』 辞典
『後宮からの誘拐』から
「どんな責苦があろうとも」
K384
作曲、ウルフガング・マアデウス・モーツァルト。
『モーツァルトの血痕』 辞典
カール・フォン・リヒノフスキー
(Karl von Lihcnowsky)
(1760~1814)
公爵。モーツァルトの保護者ではあったが、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの保護者であったことで有名である。
『モーツァルトの血痕』 辞典
イルミナティでの変名
フリーメーソンもそうであるが、イルミナティは特に内部では陰語を使用した。
ペルシャ暦を使用し、ミュンヘンをアテネ、フライジングをテーベ、アイヒシュタットをイェルサレムと称し、指導者たちをアレオバガイツと呼び、古典から個人名も名付けられた。ヴァイスハウプトはスパルタクス、クニッゲはフィロ、ツヴゥァックはカトー、ミラボーはアルセシラスのちにレオニダス、ボーデはアメリウス……などと呼称したという。
モーツァルトは1787年、プラハを訪れた際、友人ゴッドフリート・フォン・ジャカンへの手紙で、〈啓明団〉のこの合い言葉をパロディにしたような変名をおもしろおかしく名付けている。
『モーツァルト書簡全集Ⅵ』より抜粋してみる。
「~さて、ごきげんよう。最愛の友よ。最愛のヒンキティホンキー君!──これが君の名だ。知っているだろうが。ぼくらは旅行中みんなに名前をつけたんだ。ここに御披露しよう。ぼく、プンクティティティ。──わが奥方は、シャブラプムファ。ホーファーは、ローズカ=プムハ、シュタットラーは、ナーチビニチビ。召使のヨーゼフは、ザガダラター。愛犬ガウケルルは、シャマヌツキー──クヴァーレンベルク夫人は、ルンツィフンツィ。──クルクス嬢は、ペーエス・デア・ラムロシュリムーリ。フライシュテットラーはガウリマウリ。どうか最後の名前を彼に伝えてあげてほしい~」
(1787年1月15日、プラハからの手紙)
これでもってモーツァルトがイルミナティのメンバーであったという説さえあるようだが、影響があったことは確かのようである。
フリーメーソンととりわけイルミナティに対する警察当局で手紙の検閲が厳しい折り、これはモーツァルトの単なる戯れに過ぎないのか?
『モーツァルトの血痕』 辞典
サリエリの毒殺説
サリエリが、自身成功していながらモーツァルトに嫉妬していたことは、いろいろ後世の学者や研究家が指摘しているところだが、当時のサリエリの様子はどうだったのだろう。
モーツァルトの死後32年経った1823年、ベートーヴェンの弟子イグナーツ・モーシェレスがアルザーフォルシュタット郊外の総合病院に入院しているサリエリに会った時の証言がある。
「再会は悲しいものだった。彼の姿に、はや私はショックを受けたが、彼は自分の差し迫った死について、訳のわからぬことを言うばかりであった。だが、最後にこう言った。『これは私は死の病ですが、名誉にかけて誓います。あの馬鹿馬鹿しい噂は本当ではありません。私がモーツァルトを毒殺したと思われているあの噂をご存じですね。だが違う。そんなことを言うのは悪意です。親愛なモーシェレスさん、もうじき死ぬ老サリエリが、そう貴方に語ったと、どうか世間に伝えてください」
その後すぐに、1823年11月、サリエリが自殺を図り、失敗した(引用 『モーツァルト最後の年』)。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ドイツ流のお粗末なできばえの作品
この事実について、H・C・ロビンズ・ランドン著、海老澤敏、訳『モーツァルト最後の年」にこう指摘されている。
「これまででモーツァルトに関する著作では、皇后マリア・ルイーザが『ティート帝の仁慈』を「ドイツ流のお粗末な出来ばえの作品」と表現したということが繰返し言われてきた。この批評について、証明するような当時の記録はないが、事実だとすれば、この作品の彼女の印象は、後世まで伝えられたということになる。そして、後で触れるが、ウィーンでの『魔笛』初演と同じ日(9月30日)に催された最後の公演以外は、ガラ空きだったこのオペラの公演で、王室の不認証それ自体が判然としたと言える。
『モーツァルトの血痕』 辞典
モーツァルトが作ろうとしたフリーメーソン結社〈洞窟〉
1785年にヨーゼフ2世が出した勅令により、フリーメーソンの廃統合がおきたことにより、モーツァルトの所属していたイルミナティ系の〈善行〉は、薔薇十字団系の『授冠の希望』に吸収され『新授冠の希望』と名を変え(後『授冠の希望』へ戻る)、彼が尊敬するイグナーツ・フォン・ボルンとの連携や教えから離れてしまったことにより、新たにモーツァルトがイルミナティ系の結社を作ろうとした。その結社の名が『洞窟』であった。
ただし、この行為は宮廷勅令違反となり、それも含めてこの計画は頓挫したが、この『洞窟』のイメージは、イルミナティの会合が行われた『アイゲンの洞窟』のことであり、後にオペラ『魔笛』にて再現されることとなる。
『アイゲンの洞窟』に関しては第四章18世紀のフリーメーソン(中編)のポップアップを参照。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ハインリッヒ・ラッケンバッヒャー
(Heinrich Lackenbaher)
(1735~1795)
ウィーンの呉服商人。ラッケンバッヒャーに1000グルデンの借金をしたという借用証書が『モーツァルト書簡全集Ⅵ』にそのまま掲載されている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・ミヒャエル・プフベルグ
(Johann Michael Puchberg)
度々のモーツァルトの催促に応えて、金銭の用立てをしていたウィーンの豪商である。
詳細は、第二章コンスタンツェの告白(前編)、
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨーゼフ・オーディロ・ゴルドハーン
(Joseph Odiro Goldhahn)
モーツァルト死後すぐに作成された『財産目録』、『差し押さえ報告』にその署名が確認できる。
モーツァルトの手紙にも彼の名が何度か出るが、なぜかゴルドハーンは、、、。
詳細は、第二章・コンスタンツェの告白(前編)にて。
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創造主アドナイ
モーゼの十戒によると、その三つめの戒律に「神の名をみだりに唱えてはならない」とあり、神の固有名詞は隠されてしまった。
この唯一絶対神をヘブライ文字では4文字で顕し、聖四文字といった。
聖四文字をラテン・アルファベットに転化したものが、Y、H、V、H、である。
これは「在りて在る者である」と訳すという説もあるが、定説ではない。
Y、H、V、H、は、ヤハウェ、イェホヴァ、エホバ、ヤーウェなどいろいろな呼び名で発音されるが、本来の読み方は不明である。
キリスト教においては、これを固有名称とせずに「主」と訳されることがある。
ヘブライ人たちは、神への尊敬と畏怖の念から、Y、H、V、H、に適当な母音符号をつけて、アドナイと呼んだ。この場合「我が主」という意味となる。
『モーツァルトの血痕』 辞典
アダム・ヴァィスハウプト
(Adam Weishaupt)
(1748~1830)
ヴァイスハウプトについては、じょじょにその正体が明らかになっていくという構成の為、あえて項目は作らなかったが、このことは解説しておこう。
アダム・ヴァイスハウプトは改宗ユダヤ人であった。
父はヨハン・ゲオルグ・ヴァイスハウプト。著名な法学者であり、インゴルシュタット大学に科学アカデミーを創設したのは彼であった。
ヴァイスハウプトはバイエルン王国のインゴルシュタットに生まれ、イエズス会神学学校で学び、インゴルシュタット大学の法学部に入学した。この時の大学教育も大学の運営も、イエズス教会の支配下にあった。ヴァイスハウプトは、イエズス会の教育を受けながら、かつてユダヤ教を激しく非難したイエス・キリストに反発するようになり、フランスの啓蒙主義と百科事典派の影響を受けながら、ユダヤ教の知的体系を学び、古代ギリシャ哲学、グノーシス派、エジプトの神秘哲学、プラトン派などを吸収し「早熟のユダヤ人」として頭角を顕していた。
そして、20歳で法学の学位を修得、24歳で教授となり、27歳で法学部長となったのである。
ウィリアム・ギー・カーの著作『将棋の駒』によると、1773年初代ロスチャイルドら13人の国際ユダヤ会議がドイツのフランクフルトで開催された折、フリーメーソンに代わるより強固で、シオニズムによる世界征服と、その手段としての世界革命要綱を定め、実行するために、イルミナティが創設され、その責任者としてアダム・ヴァイスハウプトが選抜されたという。
ウィリアム・ギー・カーはカナダの軍人で1959年に死去している。
イルミナティと言う言葉自体は以前から存在し、それは「神や人間についての内的な啓示」を意味し、他の宗教団体でも使われていた。
『モーツァルトの血痕』 辞典
アドルフ・クニッゲ男爵
(Freiherr Adolf Franz Friedrich Ludwig Knigge)
(1751~96)
ドイツ(神聖ローマ帝国)の作家、評論家。
フリーメーソン〔厳格戒律派〕に属しながら、1779年にイルミナティに所属した。81にはドイツ全土を旅行し、イルミナティの団員を募ったという。
ヴァイスハウプトの理念を形にしていったのはこのクニッゲである。またイルミナティに秘教的、神秘的要素を取り込んだのも彼であった。ボーデやゲーテなどが加入し、少数エリートによる構成員だったのがみるみる巨大化し、階位をさらに積み上げたのも彼だったようだ。しかし1784年、ヴァイスハウプトと組織化や階位の設定などを巡って対立し、同年に脱退した。以後、秘密結社の存在について猛然と否定の立場を取るようになった。
(参考 キャサリン・トムソン著/湯川新、田口隆吉訳 『モーツァルトとフリーメーソン』)
なお、クニッゲが著述した『人間交際術』は、森鴎外が「知恵袋」という題名で1910年に新聞掲載している。
『モーツァルトの血痕』 辞典
フィリップ4世
(Philippe IV)
カペー朝フランス王。
整った顔立ちのため、端麗王(Ie Bel)と呼ばれたが、その容姿とは裏腹に、王権の絶対強化を推し進めた。当時のフランスは度重なる戦争のため、財政難であり、優遇されていた聖職者からも課税しようとして、時のローマ教皇ボンファティウス8世と対立。1303年、ローマの南東約60キロにある教皇の別荘を襲い、一室に監禁し、退位を求めた。教皇はその1ケ月後に憤死した。以後、フィリップ4世はローマ教皇庁に圧力を加えるようになる。
1305年、フランスのボルドーの一大司教であったクレメンス5世が教皇に選出されたが、枢機卿でもない彼の選出は、フィリップ4世の意向であった。
1307年9月、フィリップ4世は、巨大化したテンプル騎士団の土地、財産に目を付け、クレメンス5世を利用して、ローマ教皇への反逆罪として次のような罪状を公開した。
〇同性愛 〇堕落した性行為の数々 〇新生児虐待 〇児童虐待 〇人肉食 〇黒魔術の行為 〇悪魔崇拝 〇キリスト教の否定と冒涜。
10月、フランス各地にいたテンプル騎士団の騎士たちと騎士団総長のジャック・ド・モレーを逮捕。その数は15000人ともいわれる。騎士団は土地と財産は没収され、騎士たちは強制的な自白を強いられ、処刑されていく。1314年、ジャック・ド・モレーらをパリ市シテ島の計上で生きたまま火あぶりとした。モレーはこの時、フィリップ4世とクレメンス5世への呪いの言葉を吐いたという。
火刑に処されるテンプル騎士団の団員達
翌年、フィリップ4世とクレメンス5世は急死した。
フィリップ4世は、狩りの途中、脳梗塞で倒れ、数週間後に死亡した。
『モーツァルトの血痕』 辞典
アンドリュー・マイケル・ラムゼイ
(Andrew Michael Ramsay)
(1686~1743)
スコットランド生まれの作家であるが、1727年に政治神学論文を書くためにフランスに滞在。以後はほとんどの生涯をフランスで送った。
1737年、ラムゼイはフランスのフリーメーソン・ロッジにて歴史的演説を行った。それは、フリーメーソンの目標は、世界一大共和国を成すことであり、その起源は石工ではなく、テンプル騎士団であると主張したのである。そして、ラムゼイ自身もテンプル騎士団と関係あることを仄めかせた。
1737年3月21日に行ったその演説の内容はこのようなものであった。
「パレスティナの十字軍時代に、多くの王や領主、それに市民が賛同し、聖地にキリスト教の寺院を再建すると誓った。その際、建築様式は原初のものに戻すことにした。異教徒やサラセン人と区別するため、宗教の泉から拾った古代のサインや合言葉を使うことで合意した。このサインや合言葉は、時には祭壇の前で決して漏らさないと厳粛に誓った者同士だけが使った。したがって、この神聖な誓はよくいわれるように呪いではなく、あらゆる国籍のキリスト教徒を一つの団体に集結させる立派な絆なのだ。その後しばらくして、われらが結社はエルサレムの聖ヨハネ騎士団と親密な同盟を形成した。以後、われわれのロッジは聖ヨハネ・ロッジと名乗った」(ネスタ・H・ウェブスター著、馬野周二訳『世界秘密結社1』)
この演説により、フリーメーソンの起源はテンプル騎士団であると示唆されたことになり、フリーメーソン内部から議論の嵐が巻き起こったという。
フリーメーソンの起源については諸々説はあったが、この説はフリードリッヒ大王をもフリーメーソンに関心をもたらせたほどインパクトがあったようである。
また、ラムゼイの、あらゆる国籍のキリスト教徒を一つに、と言う言葉は、ワン・ワールドとしてフリーメーソンの陰謀説として使用されるようになった。
1782年、ドイツのヴィルヘルムバートに、全ヨーロッパのフリーメーソンの幹部が集会を開いた時、このテンプル騎士団説は正式に否定されるが、それでもなお、フリーメーソンの創設は、テンプル騎士団であることを信じて疑わないフリーメーソン団員や、研究者もいる。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・ゴッドフリート・フォン・フント男爵
(Johann Gottlieb von hunt)
(1722~76)
シレジア生まれ。
1741年、フランクフルトでフリーメーソンに入会。1743年にパリで、スコットランドの騎士団によって復活したテンプル騎士団に入団したと主張し、その場にキルマーノック卿と上級のジャコバンたちがいたという。また、チャールズ・エドワード王子が騎士団のグランド・マスターであったことを仄めかし、これは話題となった。しかし、チャールズ・エドワードはこれを否定。フォン・フントの嘘であったことが露呈した。
しかしこの行動は、フント自身が、本気でテンプル騎士団の再結成を試みようとして、スチュワート王朝の支援を得ようと、チャールズ・エドワードを引き込もうとしたという説もある。
1751年、プロイセンにフリーメーソンの一派《厳格戒律派【スクリスト・オブザーヴァンス】を創設したのはフント男爵であった。
厳格戒律派は、スコットランド儀式を採用し、「修正石工」と名付け、知識人と貴族階級のみで構成され、新しい〈テンプル騎士団〉宣言を公表したのである。
メンバーは、互いに過去の騎士の称号で呼んでいた。厳格戒律派の長は顔を見せない「陰の上位者」というが、その長はフリードリッヒ大王だったとも、ジャコバン派の首領だとも、フントの捏造だとも言われている。団員にはプロイセンの宰相フォン・ビショフスヴェルデル、大王の官僚フォン・ハウグヴィッツなど確かにフリードリッヒ大王の息のかかった顔触れが多かったようだ。
また、オカルティストとして悪名高い自称カリオストロ伯爵が参入したロッジ〈希望〉は、この厳格戒律派のものであった。イルミナティが最初に同盟を結んだフリーメーソンが、この厳格戒律派で、カリオストロ伯爵は結合した新結社の代理人となった。彼の使命は「フリーメーソンをヴァイスハウプトの狙いに沿うように変質させること」だったと告白している。やがて厳格戒律派は後述するヴァイスハウプトの腹心ミラボーやボーデたちによって実際に変質され、消滅してしまう。フント男爵は無能の烙印を押され、メーソンの世界から追放されてしまった。
(参考 『世界秘密結社』Ⅰ)
『モーツァルトの血痕』 辞典
セフィロトの樹
簡単に言うとカバラの奥義を縮小した図形である。生命の樹とも言う。ボルン卿の解説の他に、左の柱を聖霊ルーハ、真ん中を御父エロヒム、御子キリストの三位一を現すという説もある。
だがこれはキリストを神と認めないラビやカバリストの発想とは思えず、近世のヨーロッパにおいて提唱された説だと思われる。また、十の円形(球体であるとされる)は、上から順番に「ケテル(王冠)、コクマー(知恵)、ビナー(理解)、ケセド(慈悲)、ゲブラー(神秘の力)、ティファレド(美)、ネツァク(永遠)、ホド(威厳)、イェソド(基礎)、マルクト(王国)」と名付けられている。さらにビナーとケセドの間にダアト(知識)という隠れた一一番目のセフィロトがあるとされている。
(参考 マンリー・P・ホール著/大沼忠弘・山田耕士・吉村正和訳 吉村正和訳『カバラと薔薇十字団』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
カバリスト
ヘブライ(ユダヤ)の神秘思想をカバラといい、神秘主義者をカバリストという。
カバラとはヘブライ語で口伝という意味である。カバラの歴史とその奥義を詳細に語ることはスペース上とても不可能であるが、端的に言うと『旧約聖書』に記される神、もしくは神的世界と、個人的な交流、接触、秘められた神智を修得する為の思想である。これは巧妙に隠されたもので、ユダヤ人のなかでも最高の儀式に参入した者のみが、その原理の伝授を受けられるのだという。その原理とは、人類の堕落以前に、神はまず天使たちにその原理を説き、続いて天使たちがアダムにその秘密を打ち明けたものだとされる。つまりこの原理を獲得、認識することによって、堕落した人類が再び楽園に回復できるというのである。その一つのシンボルが、セフィロトの樹に象徴される生命の樹の概念であろう。あるいはまた、『旧約聖書』の「創世記」から「申命記」に至る五つの伝承は、モーセがシナイ山で「十戒」を神から授かった時、同時にカバラの律法も伝授され、それが「モーセ五書」として封じ込められている、ともされる。ヘブライ文字はその為、神の創造のわざの現れと見なされ、音価と数字に変換される数秘学、ゲマトリアに対応する。つまりヘブライ文字は決められた数値変換で並べ替えられることによって、意味が別なものになるのである。ただし、このようなカバラはカバリストたちが主張するように紀元前からあったわけではなく、象徴としての生命の木や秘伝の書「ゾハール(光輝の書)」などは十二世紀頃に体系化されたものだとされている。
(参考 『ユダヤ教の本』~カバラ神秘主義 文・藤巻一保) (参考 『カバラと薔薇十字団』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
スコティツシュ・ライト
(Scottish Rite)
※スコティッシュ・ライトの階位表
モーツァルトが生きていた時代のフリーメーソンの階位は、徒弟(Entered Apprentice)、職人(Fellow Craft)、親方(Masrer Mason)の三階級である。しかし、本来の石工である実務的メーソンと違い、石工は関係のないエリートたちが集まる思索的メーソンは、その上に階位を設けて複雑な階級制をとるフリーメーソンの一派も現れてきた。
1737年、アンドリュー・ラムゼイが、フリーメーソンの起源は十字軍であり、謎の上級者がいると発言したことがきっかけに、上級階位が設けられたようである。
新たな階位システムは、各々のロッジで定められ、複雑怪奇となり、90もの階位制をともなったロッジも現れたが、有名なものは、フランスで最大のフリーメーソンである、フランス大東社(Grand Orient of France)が取り入れた古代公認スコットランド儀礼の33階位であろう。フランスのフリーメーソンがスコットランドの儀礼を受けいれたのは、テンプル騎士団の発祥の国がフランスであるからである。現在は、トップの階位は功労者に与えられる名誉階級であるという。
『モーツァルトの血痕』 辞典
革命騒ぎ
ドラクロワ画「民衆を導く女神」
モーツァルトの晩年紀にあたる1790年は、フランスで革命の声が上がっていた時代であった。1789年7月14日のバスティーユ襲撃が契機となって、民衆たちによる憲法制度国民議会が結成され、絶対王政と封建制度に対して反発し、フランス革命が勃発したのである。1790年、市民軍の総司令官に任命されたラファイエットの元、三色旗(現在のフランス国旗)が革命の旗となっている。
当時は聖職者、貴族、民衆の三つの身分制であったが、聖職者、貴族がフランスの人口の2%、98%が民衆であり、特権階級は税免除されていたのである。また、不作も続き、特権階級の為に民衆が働き続けるという状況に、啓蒙思想家であるルソーやモンテスキューが様々な提案をしたが、フリーメーソンがここに関与していたことは明白である。
『モーツァルトの血痕』 辞典
シモン・マグス
(Simon Mags)
『新訳聖書』にも登場するサマリアの魔術師。
『聖書』の中では宣教に現れたペテロとヨハネの聖霊の力を金で買おうとしたり(「使従行伝」)、ペテロの宣教を邪悪な教えで妨害したり(外伝「ペテロ行伝」)という姿が伝えられる。しかし実在のシモンはグノーシス派の伝道師であった。グノーシスとは「知恵」「認識」を意味するギリシャ語からきているという。もともとパレスチナを拠点とした哲学集団で、キリスト教の初期の秘密教義に精通していると主張していた。その本質は「永遠の真理を知ることによって信仰を補完し、古代信仰とキリスト教を結び付け、キリスト教により広い意味を付与することが目的」であり「神はすべての国の宗教に姿を現しているという信念」だという(『世界秘密結社Ⅰ』ネスタ・H・ウェブスター・著/馬野周二・訳p三二)。
またはキリスト教がグノーシスの密議を取り込んだのだという説もある。だがシモン・マグスは実在した人物であるらしく、魔術師というよりも神として崇拝されていたらしい。このシモンこそがグノーシス派の創立者であったという説もある。彼の教義には「至高の力」が「エンノイア」という最初の流出物を起こしたことから世界がはじまり、人類の魂が物質世界に閉じ込められた」といった、セフィロトの樹の論理にも似た、明らかな初期のカバラの教義が取り込まれていて、そこが神秘学者たちの研究対象となり、フリーメーソン内の神秘主義者、とりわけ〈啓明団〉の団員たちによって支持されていた。
(参考 マンリー・P・ホール著/大沼忠弘、山田耕士、吉村正和訳『古代の密儀』
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヴィヘルムスバード大会
1782年7月15日から9月1日にかけて、ハーナウ市(『グリム童話』の作者グリム兄弟の生誕の地として知られるドイツの当時は、ヘッセン・カッセル公国に属した都市)郊外のヴィルヘルムズバード宮に、ヨーロッパのフリーメーソン分団の代表が集って、フリーメーソンにおける様々な問題、議題について徹底的に討議された。この会議ではテンプル騎士団起源説は最終的に否決された。この会議においてクニッゲ男爵が、相当数の有能なフリーメイソンリーを啓明団に入団させることに成功したという。また啓明団に吸収されてほぼ実態の無くなった〈厳格戒律派〉はこの会議での決定により、解散させられた。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハン・ヨアヒム・クリストーフ・ボーデ
(Johann Joachim Chrstoph Bode)
(1730~1789)伯爵。
ゲーテがフリーメーソンに参加したときの立会人である。
〈厳格戒律派〉に所属していたが、後にイルミナティに移行した。彼は音楽家であり、翻訳家でもあったらしい。メーソンの歴史や儀礼については広い知識を持っていた。イルミナティでは、クニッゲとともに広報活動を担当していた。
彼はイルミナティが解散した後もパリへ赴き、パリのフリーメーソン分団〈アミ・レウニ〉と共同戦線を張り、フランス、ドイツの破壊思想の分子たちを集め、ミラボーらと共に、フランス革命の陰謀のシナリオを仕上げたといわれる。
『モーツァルトの血痕』 辞典
オノーレ・ガブリエル・ド・リケティ・ミラボー
(Honoré-Gabriel de Riquet Comit Mirabeau)
(1749~1791)
フランス革命の初期指導者で、貴族でありながらブルジョアの立場から立憲君主論を主張した。その為民衆からは絶大な人気があったという。しかしそのもう一つの顔は一七八六年にベルリンで入団した〈啓明団〉の指導者で、ヴァイスハウプトの腹心であった。または〈啓明団〉の創立そのものに彼が関わっていたとする説もある。
ネスタ・H・ウェブスター・著/馬野周二訳『世界秘密結社Ⅰ』によると、啓明団が解散を命じられた時、ミラボーの家から没収された『回顧録』には次のような記載があったという。
「フリーメーソンを真の原理とし、本当の人類の幸福を目指す為、フリーメーソン内部に設立すべき非公開の結社に関する覚書。作成名・F……□□□、現在名アルセシラス(※イルミナティ内での呼び名=ミラボー自身である!1776年)。」
「彼(ミラボー)は若い頃からフリーメーソン団員だった。彼の論文の中では、筆写係の手になる、フリーメーソンの国際組織についての叙述が見られる。彼がアムステルダムでその組織を主滓していたことは間違いない。この計画には、人類の連帯や、教育の重要性、『政府や立法制度の改善』についての、『専制政治に関する随想』(1772年)よりもはるかに進んだ思考が含まれている。ミラボーの精神は熟した。彼が『上位の位階の兄弟たち』の任務として描いているものは、後に議会が達成した仕事とある部分で非常によく似た総合的改革案にさえなっている。すなわち、土地への隷属の禁止、人間の権利、強制労働や職人ギルドの廃止(会社の自由)、関税や消費税の撤廃、宗教的見解や出版物の自由、特権の消滅である。組織し、発展させ、この目的に到達する為、ミラボーはイエズス会の例を引き合いに出す。『われわれは全く正反対の見解を持つ。人を啓発し、自由に、かつ幸福にするのだ。しかし全く同じ手法で、それを行うこともできるし、そうしなければならない。イエズス会が邪な目的のためにやったことを、われわれは良い目的のためにしようというのに、誰が邪魔できようか?」(p252~8)
そして『同書 p260には著者ウェブスターの見解がこう掲載してある。
「この目的とは何だろう。バーソウ氏(※『ミラボーの生涯』の著者で『解雇録』の全文が掲載されているという)が指摘するように、社会・政治『改革』案は、後にフランス制憲議会が達成した仕事に良く似ている。言い換えれば、1789年に制憲議会が実施したプログラムは、1776年にイルミナティの核を形成したドイツ人メーソン団員のロッジにおいて、大部分が作成されているということだ。それなのに、イルミナティはフランス革命に何の影響も及ぼしていないというのか!」
『モーツァルトの血痕』 辞典
マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール
(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre)
(1758~94)
フランス革命期の政治家でジャコバン派のリーダーだった。1793年、革命のさ中、2万人のパリ市民に見守られ、ルイ16世とマリー・アントワネットが処刑されるが、ロベスピエールは混乱する人民を扇動して人民軍を組織させた。彼はその際、蜂起委員会を立ち上げ、扇動に乗った人民軍を利用して国王の死刑に反対を投じた国民公会の議員を逮捕、処刑し、ジャコバン派は財産の平等や身分特権の廃止などを訴え、混乱する民衆に革命遂行の為の恐怖政府を認めさせた。そして反革命派の粛正という名のもとに多くの者が処刑され、ジャコバン派は次第に恐怖の独裁政治を継続させるようになる。ミラボー、ロベスピエールらと同じフランスでも過激派とされたメーソン分団〈結合せる友〉に所属していた。
(参考 湯浅慎一著『秘密結社フリーメンソリー』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
ケテル、コクマー、ビナーを形成する三角形に置かれるヘルの目
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヘルの目
ヘルの目
フリーメーソンに興味をお持ちの方なら周知のことであろうが、ヘルの目は、ヤーヴェの目、あるいは万物を見通す目として知られている。ネットやフリーメーソン関係の書籍を見ると、この目はフリーメーソンの陰謀の証であるとの情報が溢れているが、これは本当のことであろうか? ヤーヴェの目は、人民を監視する目だというのである。
現在パリのカルナウァレ美術館に所蔵される「人権宣言」の盾には光り輝くヤーウェの目が描かれている。同じ物がアメリカ合衆国のFRBが現在も発行している1ドル札(1935年発行以来、デザインは変わらず)にも印刷してある。こちらはフリーメーソンの象徴である一三段の石造ピラミッドのその上に輝く三角の中の目が光輝いている。
これが、単なる偶然か、それほど意味の無いものなのだろうか、というところからこの議論は始まろう。少なくとも意味の無いものは描かれないだろうし。ましてやそれがフリーメーソンのものとなると……。また、1ドル紙幣のピラミッドの一番下の石壁にある「MDCCLXXVI」の文字はローマ数字で1776を現しているが、これは前項で述べたように、アメリカ東部の13州が、イギリスからの独立宣言をした年で、その数字が彫られてあると言われている。しかし1776年はアダム・ヴァイスハウプトが〈啓明団〉を創設した年でもあるのだ!
ちなみに現在では、その陰謀の中枢にあるのは、ユダヤの財閥ロスチャイルドだという都市伝説的な噂もあるが、初代ロスチャイルドとなるマイヤー・アムシェル(1744~1812)はフランクフルトの両替商であり、ネイサン(1777~1836)の時代に金取引で成功し、現在の基盤を作ることになる。そのロスチャイルドの発祥地、フランクフルトの見本市会場にそびえ建つ63階建メッセタワー(高さ257メートル)の頂上にあるピラミッド(その上部にヤーウェの目を思わせる照明灯が仕込んである)のオブジェも、ただのオブジェなのだろうか?
メッセタワー
『モーツァルトの血痕』 辞典
アメリカ合衆国ですでに成就したもの
(Emanuel Schikaneder)
フワシントンの肖像画。
フリーメーソンの前掛けを身につけている。
アメリカ合衆国独立宣言のことである。
フランスでラファイエット将軍の元で「人権宣言」が採択される13年前の、1776年7月4日に大陸会議にて採択されて、英国(グレート・ブリテン王国)より独立した。
アメリカ、フランスでの相次ぐ革命宣言は、ヨーロッパの各政府、王朝に大きな影響を与えたが、アメリカの独立宣言もフリーメーソンが関わったという噂が、当時から囁かれていた。これは本当だろうか? 合衆国初代大統領のンジョージ・ワシントは次の項で述べる、ヤーウェの目の入った1ドル札の肖像で知られるが、その肖像はフリーメーソンのエプロンを着用しているものであるらしい。また、イグナーツ・フォン・ボルン卿とも友好関係があったとも思われるベンジャミン・フランクリンは、トーマス・ジェファーソンらと共にアメリカ独立宣言の起草委員として、最初の著名をした5人の政治家のうちの一人であった。現在は100ル札の肖像となっている彼は、パリの分団〈九人姉妹〉の大親方でもあり、革命の為の何らかの指南は当然あったと考えられよう。起草委員の残りの3人は、中心となったトーマス・ジェファーソン。ジョン・アダムス、ジョン・ハンコックであったが、全員がフリーメーソンであった。とは言え、フリーメーソンという組織が独立に加担した証拠はないという説はあるが、フリーメーソンとは組織なのか、その考えを持ったフリーメイソンリーのことなのかを考える必要があろう。
「フランス革命」の勇、ラファイエット将軍に関するこんなエピソードがある。1777年、20歳のラファイエットは自費を投じて義勇軍を編成し、アメリカに渡ってイギリス軍と奮戦した。しかしいかに奮戦しようとも、ワシントンも会議も司令官の役を与えてくれない。だが分団〈アメリカン・ユニオン〉に加入した途端、信頼を得て司令官に昇進した。「私がアメリカのフリーメイソンリーになってから、ワシントン将軍が何か天から照明を得たように思えた。それ以来、彼の真の信頼を疑うことは決してなかった。そして間もなく私は非常に重要な司令官の役を与えられた(『われらが政府の創立期におけるメイソンリー』1927年刊~)」(引用・湯浅慎一著『秘密結社フリーメイソンリー』)。ラファイエットはフランスに帰国し、英雄として迎えられる。パリ国民軍司令官となり、ミラボーらの所属するパリの分団〈結合せる友〉に加入。フランスの絶対王政を立憲君主制にするべきとの思想をもって、フランス人権宣言の起草に着手し、採択される……。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ジャコバン・クラブ
1787年、ヴェルサイユにブルトンクラブなる、ブルターニュ出身の議員で構成された政治団体が母体となり、後、ジャコバン修道院で集会が行われるようになって、ジャコバン・クラブとなった。そのジャコバン・クラブで主導権を握ったのが、フリーメーソン〈レ・ザミ・レユニ〉のロベスピエールであった。
ジャコバンには革命に対する穏健派、立憲君主派の思想を持った者もいたが、しだいにロベスピエールのカリスマ的存在が民衆に受け、急進派が台頭することになる。フランス革命における過激派として民衆側を熱狂させて革命を推進し、1793年には国王を始めとして、革命反対派、穏健派、立憲君主派を次々と処刑することによって、恐怖政治をフランス中に巻き起こした。しかしこの恐怖政治が反ロベスピエールの運動を起こし、1794年にロベスピエールら、ジャコバンのテロリストたちは逮捕、処刑されることによってジャコバンは消滅する。ジャコバンにはフリーメーソンのメンバーが多数名を連ねていたことから、しばしフリーメーソンの陰謀とむすびつけて論じられることもあるが、フリーメインソリーたちはこれを「フリーメーソンの悲劇」と呼び、フリーメーソンの組織と、ロベスピエールの思想、行動は全く別のものであると反論している。
『世界秘密結社Ⅰ』でネスタ・H・ウェブスターがこう記していることも付け加えよう。
「フリーメーソン自体が、真の革命勢力を提供したわけではなかった。バルエル自身が断言しているように、イルミニズムに侵されていない多くのメーソン団員は王や教皇に忠実で、専制国家が危機に陥ったとみると、コントラ・ソシアルの王政支持派はすぐにロッジを招集して、国王と憲法を守るための団結を堂々と宣言した。上位のメーソンでさえ、カドシュの騎士の位階では教皇やブルボン王朝への敵意を誓ったはずだが、同じように王政支持に参集した者があった。『大多数の兄弟たちは、フランス魂がメーソン魂に打ち勝った、と言い、主義も心もなお王を支持して』いた。この精神を覆し、『復讐の位階』を単なる儀式から恐ろしい事実に変えるには、ヴァイスハウプトの破壊教義が必要だったのである」(P三○一)
「さて、フランス革命を準備したのはフリーメーソンのロッジである──フランス人メーソンの多くはその事実を自慢する──というなら、さらに付け加えるのを忘れてはなるまい。革命を行ったのはイルミニズムに感化されたフリーメーソンであり、そのことを激賞するのはイルミナティ化したメーソン、即ち『ジャコバン派の伝道師』たる、ヴァイスハウプトの弟子たちが1787年にフランスのロッジに持ち込んだのと同じ系統の後継者であるということだ」(同書p301~2)
(参考 『秘密結社フリーメイソンリー』) (参考 フランソワ・フュレ、モナ・オズーフ編/河野健二、阪上孝、富永茂樹監訳『フランス革命辞典3』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
そこにはこう記されていた
ここから紹介するアダム・ヴァイスハウプトの言葉は、ネスタ・H・ウェブスター著、馬野周二訳『世界秘密結社Ⅰ』第9章「バイエルンのイルミナティ」より引用するものだが、ヴァイスハウプトの言葉であり、イルミナティの公式綱領である。
『モーツァルトの血痕』 辞典
オノーレ・ガブリエル・ド・リケティ・ミラボー
(Honoré-Gabriel de Riquet Comit Mirabeau)
『第六章 フリーメーソンとイルミナティ、その正体に関するボルン卿の証言・その3』(2019年11月号)をご参照ください。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ニッコロ・マッキャヴェッリ
(Niccolò Machiavelli)
(1469~1527)
イタリアのルネッサンス期の思想家。フィレンツェ共和国の外交官、軍事顧問官などを歴任。
フィレンツェ共和国を統治していたメディチ家へ政策を進言する原理、展望を示した『君主論』を記した。しかしメディチ家からの反応は無かったという。しかし、こらその鋭い洞察力で人間のエゴイスティックな利益だけを追求しようとする特性を炙り出し、政治をする者はその本質を利用することが得策だと訴えた。だが、その手法が目的達成の為には、手段を選ばない権諜術にあふれていたが故に、後世にこれを読む者に、悪魔の代弁者と呼ばれるようになった。
ここから手段を選ばない策略者のことを、マッキャヴェッリズムと呼ばれるようになった。
『モーツァルトの血痕』 辞典
『君主論』
マッキャヴェッリの死後、1523年に刊行されたイタリア語の政治学の著書。
1559年、カトリック教会が対抗改革の一環で、禁書リストが造られた時、『君主論』が加えられ、焼き捨てられた。
しかし、18世紀になると、ヘーゲルやモンテスキューたちに「共和主義者」の教科書として賛美、評価された。正義と力が無ければ、国は滅ぶとはマッキャヴェッリの最終的結論であろうと思われる。
『モーツァルトの血痕』 辞典
破壊すべき六題
スコットランド出身のプロテスタント、ジョン・ロビンという学者(ほぼモーツァルトらと同世代の人物)による慎重な分析による、ヴァイスハウプトの破壊計画、基本的な六命題として掲載されているものを引用。これらの事項が実行されれば、その結果は一つ、世界の破滅であることを意味する、とある。そしてこれらはソビエト連邦で適用されてきた共産主義の六大基本原則であることも指摘される。
(『世界秘密結社Ⅱ』(著ネスタ・H・ウエブスター、訳馬野周二)より引用)
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヨハネの黙示録
黙示録とは「隠されていたものが明らかになる」あるいは「神が人類に示したもの」という意味である。
ギリシア語でApocalypse、アポカリプスと呼ぶ。
BC200年からAD200年にかけて、預言者の名、あるいは匿名で書かれた未来を預言書したという書物が数多く出たが、それらは宗教学的に「黙示録文化」に分類される。
『旧約聖書』に収められている「ダニエル書」「エゼキエル書」もその黙示録文学に入るが。
ここでいう『ヨハネの黙示録』はAD90年頃に書かれたものとされ、397年のカルタゴ会議にて、『新約聖書』組み込まれることが決定し、巻末に収められることになった。
これは、パトモス島でヨハネが見た幻視による預言、黙示が書かれ、そのヨハネが使徒ヨハネなのか別人なのかの議論も分かれる。
内容は、世界の終末と再臨するイエス・キリストによる最後の審判、その後現れる千年王国とその後に続く新しい世界が記されるが、あまりに意味不明の幻視的な世界観と破壊的なイメージが様々な論争を巻き起こしながら、現在に至っている。
読み解くには聖霊の助言が必要ともいわれている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ニコラス・ル・カミュ・ド・メジエール
(Nicolas Le Camus de Mézières’s)
カミュ・ド・メジェールが設計した、パリ穀物取引所・見取図
ストーンヘイジを元としたデザインである。
(1721~1793)フランスはパリ生まれの建築家、建築学者。
若くして建築家として活躍するが、1751年に建築鑑定士を取得してから建築学者となり、フランスのフリーメーソン「北極星」の名誉役員を贈られた。1751年パリ穀物取引所の会館を建築。その構造をイギリスのストーン・ヘンジに求めた。カルメル修道院は彼の代表作とされている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
スパルタクスからフィロー、あるいはカトー
イルミナティ内部では、幹部、指導者層は変名で呼ばれていた。それはギリシャ、ローマ趣味に影響され、連想する変名が用いられた。
例えば、ヴァイスハウプトはスパルタクス、クニッゲ男爵はフィロ、カトーはツヴァックの変名であった。
『モーツァルトの血痕』 辞典
レオポルド2世
(Leopold Ⅱ)
神聖ローマ帝国皇帝(在位1765~1790)
父はローマ皇帝フランツ1世。母はボヘミア女王、ハンガリー王女、ハブスブルグ家の領袖。皇帝ヨーゼフ2世の弟。
啓蒙主義者であり、トスカーナ大公国領主時代、1786年、ヨーロッパにおいて死刑制度を完全撤廃したり、トスカーナの軍隊を縮小し、税率低減の資財にしたりという改革を行っている。
ヨーゼフ2世の後を継いだレオポルド2世は、ヨーゼフ2世の政策に対して反動的な゛政策を行った。これはフランス革命が行われている現状において、内乱や混乱を鎮静化しようという意図もあったといわれている。
フリーメーソンに関しても、それを容認したヨーゼフ2世と違い、オーストリアをフランス化しかねないフリーメーソンを非常に厳重な監視を行ったが、一方で彼は『薔薇十字団』の団員であって、薬物や毒に関する錬金術に強い関心をもっていたとも言われている。
1792年3月1日、彼は急死するが、それは彼の政治的暗殺であると報道され、フリーメーソンによる暗殺説も流れていた。
ヨーゼフ2世の後継者としてフランクフルトに来ることを知ったモーツァルトは、宮廷の副楽長に就任することを期待し、嘆願書を送ったが、これは断られている。『戴冠式』のための作曲が各作曲家に依頼され、フランクフルトに招かれたが、モーツァルトは招かれず、自費でフランクフルトに乗り込んで、『戴冠ミサ』(K317)を作曲、披露した。また、レオポルド2世は、1791年10月に夫婦でモーツァルトのオペラ『皇帝ティトスの慈悲』をプラハで鑑賞している。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヴッヒェラーの国外追放事件
この事件について『モーツァルトとフリーメーソン』にはこう記されている。
「1791年の1月にヴッヒェラーという名の書簡商が、政府を批判する多くの書籍とパンフレットを販売したかどで、当局の手先を介して逮捕された。彼の全在庫書籍は押収され、破棄された。その上1000フローリンの罰金を課され、オーストリア生まれではなかったので、国外へ追放されたのである。このような処置は法により正当化されるものではなかった。それで、警察より導入された制限処置に対して戦っていた、モーツァルトの友人であり検閲の任であった(さらには元・啓明団の団員であった=著者注)、ヴァン・スヴィーチン男爵は抗議した。当局は、ヴッヒェラーが『あらゆる点で、このうえなく危険で忌まわしい人物』であり、『現状の世論がこれらの書籍の完全な発売禁止を必要とした』と発表し、自分たちの処置を正当化するのであった。ベルゲン(ウィーンの警察署長で伯爵であった=著者注)は彼の上司コロヴラット伯爵に書き送っている。『謹んで閣下に申し上げます。禁じられた、検閲も受けない書籍を発売したかどと、陛下におかれましてはご承知のほかのマル秘の罪状によって、陛下御身の命にもとづきゲオルク・フィリップ・ヴッヒェラーを陛下の全世襲領土から追放いたしました』この『マル秘の罪状』とは、ヴッヒェラーが、啓明団の隠れみのと考えられた新編成の組織『ドイツ組合』の指導的メンバーの一人であると疑われていることであった。ヴッヒェラーが出版した書籍のうちには、ボルンの以前の支部『真の調和』の結社員ブルマウアーの詩集があった。モーツァルトは、ブルマウアーを知っていた。彼は啓明団の一人だった。彼の一冊の詩集を預かっており、それらの一つに曲を付けた」
その曲とは、1786年に作曲された『自由の歌』(K506)である。
『モーツァルトの血痕』 辞典
レオポルド・アロイス・ホフマン
モーツァルトが所属した〈恩恵〉の秘書であったが、モーツァルトの加盟する直前にフリーメーソン活動の全てを突如放棄し、ウィーンを去った。モーツァルトの加入志願に関する書類も、彼によって四週間も放置されたままであったという。脱退後のホフマンは、ペスト大学でドイツ語教授を勤めながら、それまで熱心であったフリーメーソン活動に対し、激しく攻撃するようになった。フリーメーソンがフランス革命の手引きをしたという噂の出所は、多分にこのホフマンであったとも言われる。
(参考 『モーツァルトとフリーメーソン』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヘルの目の下で宣言された「人権宣言」
「人間と市民の権利の宣言」が記された石版
結果、フランス革命が何を残したのか?
フランス革命は本当に国民の解放を実現した「市民社会の結成」の先駆けだったのか? という当時を生きたシカネーダーの疑問にどう答えられようか?
人権宣言は、ヘルの目あるいはヤーヴェの目の下で行われた。
これは事実である。「人権宣言」はラファイエットによって起草された。
そのモーセの十戒の二枚の石版を思わせるデザインによる宣言書は、ヤーヴェの目により照ら(イルミネ)され。真ん中に描かれる槍の先にはジャコバンの帽子がのっている。このヤーヴェの目はフリーメーソンの象徴主義の光が三角形の中心から発散する「知の光」と全く同じものでもある。ジャコバン=ラファイエット=フリーメーソン=ヤーヴェの目で彩られた「人権宣言」を見て、まだ諸君はフランス革命とフリーメーソンとは関係がないと言うのだろうか……?
フランス革命後のフランス国内は荒れに荒れ、恐怖政治により大勢の罪無き一般庶民や子供までもが殺された。革命後は、革命以前より経済が困窮し、国により保護されていた様々なものまでも失った。王は殺され、貴族も僧侶も特権を失い、新たな独裁政府に陥った。結局のところ、革命は目的でなく手段ではなかったか(この手段こそがイルミニズムの正体ではないか)? この後フランス革命を終結させたのは1799年、シカネーダー48歳の時、やはりフランス革命の指導者であったエマヌエル=ジョセフ・シエイエスによるブリューメルのクーデターによってであった。これによりナポレオン・ポナパルトによる統領政府が樹立された。それは実質、ナポレオンの独裁政権であった……。
ある歴史家は恐怖時代末期のフランスの状態をこう嘆いたという(引用 『世界革命とイルミナティ』p64)。
「──もはや何らの世論もなく、というよりこの世論は敵意のみで作られている。人々は総裁を嫌い、代議士も嫌う。テロリストを嫌悪し、みみずく党員(ヴァンデ県の王党派)を憎悪する。富者を嫌い、アナーキストを嫌う。革命も反革命も憎悪する……しかし憎悪が激発していくるのは新富裕層の場合である。代議士、農民、商人たちがそれぞれ地歩を占めるとなれば、王や貴族を倒した利点は一体何なのか。何と憎悪の叫びの高いことよ……。独裁政治によって惹き起こされたあらゆる荒廃──政党の荒廃、権力の荒廃、国民代表の荒廃、教会の荒廃、財産の荒廃、家庭の荒廃、良心の荒廃、知性の荒廃──これらのうち国民性の荒廃ほどみじめなものはない」
この有様をシカネーダーは空手形としたのであろう。
1792年の『ウィーン新聞』には既に次のように指摘されていた。
「世界の様相を変えようという巨大計画は、フランス人の発案ではなかった。発案の名誉はドイツ人に属する。ただフランス人は、計画の実行に着手し、歴史が証明するように、この国民の天災に従って、ギロチン、策謀、暗殺、放火、人肉食……と言った最後の事態にまでやり抜いたという名誉を要求できよう。不変的な自由と平等、単に暴君にすぎない王や貴族の排除、僧侶による抑圧、キリスト教を根絶し理性宗教を樹立する為の必要手段、などといういつも繰り返されるジャコバンの決まり文句──すべての人に、高名な啓明団【イルミナティ】のモヴィヨンがキリスト教をけなした言葉、クニッゲとカンペが国境をそしった言葉を想起させる決まり文──これらは一帯どこから来るのか。もし啓明団とジャコバン党の間に脈絡がないとすれば、前記のすべてが啓明団の『原作』と合致するのは何に由来するのか。ジャコバニズムがいたるところ、たとえば最も辺ぴな田舎にさえも、一味の党員を持っているのはどうしたことか。また調査の結果が示すかぎり、かれらがイルミニズムと接触していたが、これをどう説明するのか」
実はこの新聞の発行者こそが、アロイ・ホフマンであった。ホフマンは「私はフランス革命がフリーメーソンから発し、筋書き作家と啓明団によって遂行されたのだ、といつまでも言い続けるだろう」としている。
(引用 『世界革命とイルミナティ』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
バスティーユ陥落
バスティーユ陥落(襲撃)を描いた絵画
(ジャン・ピエール・ウエーエルの手による。)
バスティーユとは、要塞とも牢獄とも呼ばれるパリ市内にある城である。1370年に竣工した頃は要塞であったが、間もなく政治犯などを収容する牢獄となり、絶対王政の象徴でもあった1789年7月14日、市民軍が武器の引渡しと大砲の撤去をバスティーユ司令官が求めたが、白旗を掲げていた軍使が射撃を受けたことにより群衆は興奮状態に陥り、やがて城内への襲撃事件となった。市民軍はこの時の戦闘により約100人の死者を出した。この事件によってルイ16世は革命を知ったという。この様子をイギリス大使ドルセット公爵は、イギリス王宮宛にこんな書簡をしたためている。
「この瞬間から、われわれはフランスを自由な国として、国王を王権の制限された王として、また貴族を国民の水準まで引き下げられたものとして認めることができる」(引用 マチユ著/ねつまさし、市原豊太訳『フランス大革命(上)』岩波文庫)
『モーツァルトの血痕』 辞典
ジーフェキング作詞の祝典曲
ジーフェキングは「バスティーユ陥落一周年記念」の開催に助力した商人であるらしい。作曲は、同じく同組織に協力したアドルフ・フォン・クニッゲであったという説もある。
(引用 『モーツァルトとフリーメーソン』p206)
『モーツァルトの血痕』 辞典
青、白、赤の三色旗
フランス国旗
1798年のフランス革命の時にジャコバンに市民軍が掲げた旗であり、赤と青(正式には藍色)はジャコバン派の帽子の色に由来するともいい、白はブルボン王朝の象徴、白ユリともされる。多分、複合的なものであろう。
赤、白、青の順も含めはっきりとした規定はなかったが、1794年にフランス共和国の正式な国旗になった時に、現在の配色となった。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ミラボーの獅子の咆
フランス革命に勢いをつけたというミラボーの咆哮。
1789年6月23日、ルイ十六世は、御前会議をもって、国民議会と名乗る第三身分の討議を打ち壊そうとした。王は議員たちの前でただちに解散を命じ、明朝、それぞれの身分に割り当てられた議室に赴き、各自議事を再開するようにと式武長官アンリ・ド・ドリュー・プレジェ侯爵に命令し、退席した。プレジェはそのまま命令を議員たちに伝えたが議員側の議長、ジャン・シルヴァン・バイイは「ここに集まった国民は王令に従うことは出来ない」と、王の命令を拒絶した。この直後、ミラボーの雷のような咆哮で、次のような激語を投げつけた。
「行って汝らをつかわした者どもに告げよ。吾らは人民の意志によりてここにとどまる者であり、銃剣の力によるにあらざれば、この場から退去はせぬ。そう国王に伝えておけ!」(引用 『フランス大革命(上)』)
つまり、当時は神聖であった王の命令に逆らい、しかも国王陛下と言わず、国王と呼び捨てにした、この行為が、議員たちの心に火を付け、フランス革命への勢いが付いたとされる事件である。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ルイ16世
(Louis ⅩⅥ)
(1754~1793)
ブルボン朝第5代のフランス王。
父はルイ・フィルディナン王太子、母はマリー=ジョゼフ・ド・サクスの三男。
1770年5月16日、ハプスブルグ家のマリー・アントワネットと政略結婚し、4年後にルイ15世が崩御の後、国王として即位した。
1780年に拷問を廃止したり、貴族や僧侶に課税の義務を負わしたり、平民の権利を保障す政策を打ち出すが、それに憤慨した特権階級に反発をくらい、啓蒙思想に開眼した民衆を敵に回すことになった。
1789年7月14日、パリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃したことを機に、フランス革命が勃発。革命運動には精神的共感をもったこともあったが、情勢が不安を喚起すると、パリ脱出を計画。計画にはアントワネットがハプスブルグ家の力を借りて革命軍を倒すことも含まれていたため、国境付近のヴァレンヌで捕らわれてしまう。
以後、ルイ16世はテュイルリー宮殿に幽閉され、その処遇については穏健派のジロイド派、王党派と、断罪を主張するジャコパン派に分かれたが、ついに議会は王政を廃止。ルイ16世は人民裁判にかけられ、1793年1月21日。ギロチンの露と消えたのである。
ルイ16世には「マリー・アントワネットに操られる無能な王」と「民衆の境遇に心を悩ます心優しい王」と言う二つの評価があるが、ギロチンにより処刑された王は、革命政府としては無能でなければならないというプロパガンダによる印象作りであるとの指摘もある。
ルイ16世の処刑前の遺言種にはこう記されていたという。
「余は、余が告発されたすべての罪において無実のまま死ぬ。余は全ての敵を許す。余の血がフランス国民にとって有益ならんことを。そして神の怒りを鎮めんことを」
『モーツァルトの血痕』 辞典
フランス革命の勃発
フリーメーソンとフランス革命
『世界革命とイルミナティ』によると、啓明団が解散させられる二年前から、反王政、反協教の誓いのもと、幹部たちがフランスに潜入していたと、啓明団員であったカリオストロがローマ法王庁法廷での尋問で告白したらしい。続いてミラボーがフランスへ入り、フランスのフリーメーソン幹部たちに、啓明団の最高秘儀を授与し、一方でミラボー自身がイルミニズムの愚かさを暴露するパンフレットを発行した。これこそがバイエルンの啓明団の策略を隠蔽する為の作戦であった。ミラボーは自分が所属していたフリーメーソン分断にイルミニズムを導入し、さらにボーデとデ・ブッシュ男爵と共謀して、フランス全土からフリーメーソンの各分団を集結させた〈集結した同志〉分団で、イルミニズムの秘儀が明らかにされ、ヴァイスハウプトの定めた規則が正式に議事にかけられ、結果、一七八九年三月までに二六六分団が、了解もなく全てイルミナティ化された。フリーメイソンリーたちには何も知らされないのが普通で、一握りの人たちだけが本当に秘密を授けられた。
その翌年、フランス革命が勃発した。
『モーツァルトの血痕』 辞典
フロリモン=クロード・ド・メルシー・アルジャントー
(Florimond Claude, comte de Mercy-Argenteau)
(1727~1794)
ハプスブルグ帝国の外交官。
パリ在住大使の頃、オーストリアとフランスとの関係強化を図り、その意図は、ハプスブルグ皇女マリー・アントワネットとフランス皇太子ルイの政略結婚により結実した。そしてルイがフランス国王として即位した時、彼はフランス宮廷内で絶大な影響力を持つようになったのである。しかし、革命が起こってからは、マリー・アントワネットたちの国外逃亡に手を貸したりしたため、フランス国民の怒りをかった。
1792年、オーストリア領ネーデルランドの駐在匿名大使に就任。1794年にはイギリス駐在オーストリア大使に任命されたが、ロンドン到着後数日後に急死した。
『モーツァルトの血痕』 辞典
フランス革命の処刑者の数
フランス革命は、結果的に恐怖政治を生み出し、フランス全土で大虐殺がなされた。ネスタ・H・ウェブスター著、馬野周二訳『世界革命とイルミナティ』には次の数字が上げられている。
「パリで約2800人の犠牲者。うち貴族は500人に、ブルジョアジー1000人、労働者階級1000人。これらは憶測によるものでなく、カムパードンおよびヴァロンによって出版された革命裁判所の実録と、同世代の歴史家プリュドムの著作によって証明できる」とある。
さらにプリュドムによるとこの数字は、フランス全土となると、総数は三○万人にのぼり、このうち貴族はわずか3000人。庶民の子供が一個所の屠殺場で五〇〇人が殺され、軍隊のシャツを縫っていた144人の貧しい女が川に投げ込まれた」
『モーツァルトの血痕』 辞典
叙階
聖職者に階級を授けるカトリック用語で、叙品ともいう。これで、聖職を行うための権能を預け、ふさわしく果すための恩寵を与える秘跡(サクラメント)のことである。これは、イエス・キリストが12使徒に与えた権能が引き継がれたものと解釈されている。
品級には、司祭、助祭、副助祭(上級三段)、侍祭、祓魔師、読師、守門(下級四段)の段階がある。
プロテスタントでは、按手礼がこれにあたるが、秘跡とは解釈していない。
『モーツァルトの血痕』 辞典
預言
予言を授かるイザヤ
『旧約聖書』には、イエスが生誕する前から「救い主」が現れるという預言がなされていたが、この預言をする者が預言者とされる。これは、神からの啓示を受け、「聖霊に導かれつつ、神によって語る」(ペテロ第2章20)にあるように、神のメッセージを民に伝える者である。これはそうなることを選択する警告でもあり、警告を退ければ苦難に遭うこととなる、というのが『聖書』の教えるところである。
また、ノストラダムスのような予言とは違う。
予言は、大災害や戦争、事故、事件を予知するもので、最近は科学データによる予言も行われているが、預言は、神から預かる、という意味で使われる。
西暦70年にソロモンの第二神殿が滅ぼされてからは、預言者はユダヤの民に現れなくなった。預言者がいなくなれば、神との契約はありえないとし、ユダヤ人たちはモーセの「旧い契約」に対するキリストとの「新しい契約」を主張する『新約聖書』を認めていない。
『モーツァルトの血痕』 辞典
カバラ
セフィロトの樹
一般的には古代ユダヤの秘教的な教理をいい、言葉はヘブライ語の伝統、伝承を意味している。モーセが律法【トーラ】に記さなかった神の叡知を、口伝として後世に伝えたものが主たる考えである。また、ユダヤの神秘学でもあり、生命の樹を象徴的に表したセフィロトの世界観を中心とし、『旧約聖書』の秘儀的解釈によって、全宇宙の真理を追究しようとする考えに発展した。
3世紀頃にはこのような考えはあったが、実際には、12~13世紀に発展したとされている。
厳格な参入儀式を経た者でなければ伝授できない、とすることから、神の教理を追究しようとするフリーメーソンや薔薇十字団など様々な結社に影響を与えた。
また、ユダヤの神秘学をキリスト教に応用しようと考えられたのが、近代の西洋魔術の根源となっている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ジェイコブ・サミュエル・ハイイム・フォーク
(Jacob Hayyim Samuel Fralk)
(1710~1782)
バイエルン生まれの実践的カバリスト、錬金術師。
ヘブライ語に堪能で、同じユダヤ人からは、彼に並ぶ知識を持つ者はいないと称賛された男であった。いくつかの奇跡を起こせると自称し、実際に行ったが、それらは彼の科学知識によるものだとされている。ドイツのウェストファリアで妖術師のかどで火あぶりの刑に処せられるところ、イギリスのロンドンへ逃亡したという。ロンドンではアシュケナージ・ユダヤ人たちの尊敬を集め、ロンドンのバァル・シェムと呼ばれた。バァル・シェルとは、ユダヤ教で禁句とされる神の名を知る特殊なカバラのラビ、という意味である。自らシナゴークを建てたが、火災に襲われそうになった時、ヘブライの四文字を門に書き、その難を防いだともいわれる。
フォークがフリーメーソンに関与したという明確な証拠はないとされるが、彼がメーソンを超えた、上位階級者であった。秘密結社が指導を仰ぐにふさわしい最高の預言者であったという評価もある。
(参考『世界秘密結社』ネスタ・H・ウェブスター。第八章)
『モーツァルトの血痕』 辞典
ケルマー
何年もエジプトに滞在していて、マニ教に基づいて作った秘密教義への改宗者として1771年にヨーロッパに戻ってきたユトラント人商人だという。同年ドイツにてヴァイスハウプトと会い、その秘密教義の全てを伝授したとされる。
『世界秘密結社Ⅰ』でネスタ・H・ウェブスターは「ケルマーは未だに当時の人物の中でも一番の謎のままだ。一見すると、彼がユダヤ人のカバラ信奉者で、歴史に名を残す魔術師の
教えを密かに広めているのではと思いたくなる」と記す。
『モーツァルトの血痕』 辞典
アルトタス
謎の人物。ロードス島にてカリオストロ伯爵に魔術を伝授したという。
『世界秘密結社Ⅰ』にはこう記されている。
「ルクトゥール・ド・カントールは、ケルマーとアルトタスと同一人物だとし、フィギエの言う『宇宙に一人の天才、ほとんど神に近く、カリオストロは彼のことを非常な尊敬と称賛の念と共に話してくれた。このアルトタスは想像上の人物ではない。ローマ審門庁がその存在の証拠を沢山集めている。もっとも彼がいつ生まれいつ死んだかは明らかにできなかった。アルトタスは流れ星のように消えたからだ。そのせいで、ロマンチックな人々の詩的幻想では彼は不死だったといわれる』という。現在のオカルティストがサンジェルマンや、その不死伝説を非常に重要視しながら、はるかに注目すべき人物だったアルトタスに全く触れていないことは奇妙なことだ」
(p252~3)
『モーツァルトの血痕』 辞典
モーセス・メンゼルスゾーン
(Moses Mendelssohn)
フィリップ・リヒターによる銅版画にもとづく肖像画。
(1729~1786)
ドイツ、デッサウ生まれのユダヤ人哲学者、啓蒙思想家。
ロマン派の作曲家、フェリクス・メンゼルスゾーンの祖父にあたる。
ユダヤ人の貧困層に生まれた彼は、独学で哲学等を修得、ただ、父親がユダヤ教のラビであったため、タルムードなどを読み、ユダヤ的な教育が施されたという。
1754年に、劇作家レッシング、そしてカントとも知り合い、レッシングの劇詩『賢者ナータン』はメンゼルスゾーンがモデルであるといわれている。
メンゼルスゾーンは、当時、タブー化されていた、17世紀のユダヤ人哲学者、スピノザの汎神論「この世に存在するすべてものものは、神の一部である」とする考え方に、賛同し、いわゆる汎神論論争を巻き起こしたことで有名となった。汎神論とは、森羅万象に神が宿るという思想で、日本の神道に似た考え方であるといえる。スピノザは、神はただ一つであり、その神は無限である、としたのである。神は無限である、ということは、有限であるとすると、ある境から、ここからは神ではない、という外部がある、ということであり、そういう意味で、すべては神の中にある、と説いた。神すなわち、自然であり、したがって、その自然法則には例外は無く、絶対的な神がいるだけで、超自然的な奇跡は存在しない、とした。
神は自然なので、意志をもって人間に裁きを下す、ということはないここが、従来のキリスト教徒からは、無神論者とされ、教会勢力が旺盛なる時代には受け入れられないものであったのである。
メンゼルスゾーンは、スピノザを評価することによって、汎神論が議題に浮上し、スピノザ哲学は無神論ではなく、汎神論であると位置づけられた。このことは、自然を生命に満ちた統一であるとするドイツ・ロマン主義の成立を促すこととなった。
ヴァィスハウプトは、このメンゼルスゾーンから啓示を与えられたという。ヴァィスハウプトの無政府主義の思想を吹き込んだのは、彼の周囲にいるカバラ主義者のユダヤ人たちで、そのユダヤ人たちの中に、メンゼルスゾーンも含まれていたという。
また、メンゼルスゾーンは、キリスト教徒から軽視されていたユダヤ教徒にも人間としての市民権が与えられるべきだとして、ユダヤ教徒の身分的開放にも尽力を尽くしている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
フランクフルトで秘密会議
1773年、ドイツのフランクフルトで、初代ロスチャイルドである、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが、12名のユダヤの巨頭が秘密会議を開催している。
当時30歳だったロスチャイルドは、世界に対する絶対的な世界の支配権をむ持つための「25項目の行動計画からなる、『世界革命講堂』」を提示した。
それはユダヤ財閥による、金による世界支配であり、それは表面化しないことを前提に、暴力ではなく、群衆心理を利用した支配権であるとするものであった。
その12項目に、「財を活用して、我々の要求に素直に従い、我々のゲームの駒となって、正規の助言者として政府を陰で操ることを我々から任じられた学識と独創性を備えた人物に、すぐに利用され得る候補者を選ばなければならない。助言者として我々が任じる人物は、全世界の出来事を支配する為に、幼いころから我々の考えに沿って育てられ、教育され、訓練された人物にすべきである」としている。
そして16項目には、フリーメーソンに潜入し、その内部に『大東社』を組織し、無神論的唯物主義を広めるために利用する、ともある。
この会議の3年後、アダム・ヴァイスハウプトがその助言者に選ばれ、それを実行するためのイルミナティが創設されたのである。
詳しくは、ウィリアム・ギーガー『将棋の駒』を参照のこと。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ストックホルムのイルミナティ
イルミナティとは、もともと「光明を伝授された者」「啓発された者」の意味である。
ストックホルムのイルミナティとは、イマニエル・スゥエーデンボルグ(本人については第 章のポップアップ参照)の教義を基軸とした「スウェーデンボルグの儀礼」として設立されたものであった。創立は1721年で、ヴァイスハウプトのイルミナティより早かったわけである。よって、ヴァイスハウプトが創設したイルミナティを、バイエルンのイルミナティというのである。
このスウェーデンボルグ儀礼は、多くのオカルティストたちによって伝播し、フランスに流れ込んだ。動物磁気療法のアントン・メスメルや、催眠術の創始者、マルキ・ド・ビゥイセギュー、そしてカリオストロ伯爵たちによって、正しい解釈と実践として継承された。ヴァィスハウプトのイルミナティは、このスウェーデンボルグの儀礼ともリンクしていると思われる。現に、カリオストロ伯爵は、バイエルンのイルミナティの団員であったが、逮捕されたのち、極刑を逃れる為にイルミナティの内部事情を暴露し、かストックホルムのイルミナティとの関係も示唆され、今もイルミナティ批判に利用されている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ゾロアスター教
ゾロアスター教の創始者、ザラシュトラ
ザラシュトラは守護霊フラワシと共に描かれる
紀元前の古代ペルシャにおいて、始祖ザラシュトラ(独語=ツァラトゥストラ)によって始められた宗教である。知恵を意味するアフラ・マズダを唯一神とし、善と悪が対立する二元論よりなり、善の勝利が約束されている教理が特徴である。特にゾロアスター教が繁栄したのはアケメネス朝ペルシャの王、キュロスの時代である。ちなみにキュロスはバビロンを征服し、捕囚となっていたユダヤ人を解放した王としても知られている。
キリスト教はユダヤ教を母体としながら、善悪の二元論の思想、天国と地獄、救世主の到来、天使や聖霊、そして最後の審判といった思想は、ゾロアスター教からの影響だと指摘される。
またゾロアスター教の聖職者たちはマギ僧と呼ばれ、魔術や占星術を操る賢人と解釈されていた。ニーチェは賢人ツァラトゥストラという人物を配して、新しい価値観と世界観を悟らせた。またリヒャルト・シュトラウスはニーチェのこの著作をもとに交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』を作曲している。
火の祭壇での礼拝を行っていたので拝火教とも言う。
古代の日本にも拝火教は伝来していたという痕跡があり、九州大分県の猪群山などにその痕跡が残るという。
現在もインド、パキスタンに少数ながらその信者は存在していてパーシー(ペルシャ)と呼ばれている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
マニ教
ササン朝ペルシノの時代のイランで、マニ(216~276)によって開かれた啓示宗教である。
開祖マニは、両親の属していたユダヤ教に影響を受けながら、その系譜を継承する天の啓示を天使アル・タウムにより受け、その奥義を伝えたとする。しかしそれは、ゾロアスター教の教義を中心としたユダヤ教、キリスト教、仏教などの思想、教義を包括していたが、多分にグノーシス主義の形態を持っていた。また自らをイエス、釈迦と並ぶ聖人にして預言者とも位置付けた。その教義は、この世は「闇=悪」が支配しているが、人間が厳しい戒律を体得し厳守することによる叡智によって「善なる光」太陽を戻すことができるというものであった。
当初は母国でも異端扱いされたが、第二王シャーアール一世の弟が帰依したことにより、勢いづき、その勢力はイランからインド、さらには中国へも伝播した。唐の時代には摩尼寺の寺院が建てられ、明教とも称された。しかし既存宗教の要素を取り込んだことから各地で異端扱いされたり、または吸収されてしまったりして、現在は完全消滅してしまっている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
パルシー教
8世紀頃、イスラム教徒に追われてインドのグジャラートに逃れてきたゾロアスター教の信者たちを指す。ゾロアスター教に極めて似た教義を持つヒンドゥー教と同化した部分もある。
現在も少数ながら信者は存在し、インド社会に影響を及ぼしている。インド最大の財閥の一つタタ・グループはカーストとは無縁のパルシー教である。
『モーツァルトの血痕』 辞典
荘厳な計画
世界革命とイルミナティ』p25より
この一見意味深な言葉は、フリーメーソンがイルミナティに取り込まれてしまったとされる、ウィルヘルムスバード会議から帰国した、リヨンの〈マルティニスト分団〉の団員ヴィリュー伯爵が持ち帰った「悲壮な秘密」について尋ねられて発した言葉である。この言葉の後に彼はこう続けた。
「現在仕込まれている陰謀は、非常に巧妙に考えられたもので、どんな王権も教会も逃れる術はないだろう」
『モーツァルトの血痕』 辞典
ここに全く存在しない
バイエルンのイルミナティの実体
現在でも、オカルティストや好事家たちの間で何か重要な神秘の謎と陰謀、あるいはフリーメーソンの本来の奥義を啓明団(イルミナティ)が隠し持っているのではないかとされるが、その実体はどうだったのか?
『世界革命とイルミナティ』p32に、バイエルン政府当局が幹部の一人であったツヴァックの家を急襲し、陰謀家たちの手口を明るみに出す書類を押収した模様が記述してある。押収されたものは次のようなものであった。
「無理に開けると偽装爆破装置によって破裂する堅牢な文書保管箱の説明書、顔に吹きかけられると盲目になるか死亡する合成物の説明書。印章偽造説明書、特別猛毒性の毒薬調合法、寝室を有毒蒸気で充満させる有毒香水の造り方、流産を引き起こす茶の製法などが発見された。『ホルスよりもいい』という表題の無神論賛辞もみつかり、さらに既述の女性会員二人の組成に彼女らの協力を得る計画につき、次のように記したツヴァックの手書きの文書が発見された。
『この計画はたいへん有効で、多くの情報と金を集めるだろう。しかも、セックスのお好きなわが最も忠実な会員たちの好みに、魂を奪われるほどぴったりだ。計画は貞淑組と解放組の二組で構成し……彼女らは互いに知り合ってはならないし、男性にそれとわからずに支配されていなければならない……前の組は良書を読ませて、後の組は隠れて情熱をほしいままにさせることによって……」
『モーツァルトの血痕』 辞典
フランシスコ・ザビエル
(Francisco de Xavier)
ザビエル肖像画
(1506~52)
キリスト教を最初に日本に伝えたイエズス会士。当時日本では「しびえる」「じゃびえる」と記されている。
バスク人の血をひくスペイン人。父方はスペインに合併される前のナバーラ王国の貴族で、首都バンブローナニ近いシャピエル城で生まれた。19歳でパリ大学の聖バルブ学院に入学。同学院に学ぶスペイン軍人イグナッシオ・デ・ロヨラと知遇を得る。1534年8月15日、ヨロラやピエール・ファブール(1506~52)、ティエゴ・ライネス(1502~65)、シモン・ロドリゲス(1510~79)ら7人で、清貧、貞潔の誓いと「イェルサレムへの巡礼と同地での奉仕」の誓願を立てた。これがイエズス会のはじまりとされる。
1540年、パウルス3世の勅書「闘いの教会の統治について(日本語訳『イエズス会創立勅書』)により、イエズス会が正式認可され、デ・ロヨラが初代総長となった。 ザビエルは、四一年四月七日に極東における教皇代理としてリスボンを出発して、翌5月6日にインドのゴアに到着。セイロン、マラッカ、香料諸島などで悲槍なまでの布教活動を行うが成果は得られず、42年12月にマラッカで日本人アンジロウと出会い、彼の人柄から日本に興味をもち、日本渡航を決意。49年8月15日(天文18年7月22日)鹿児島に上陸。日本での布教を開始した。
ザビエルは、仏法の僧侶と霊魂不滅の問答をしたり、京で天皇に拝謁したりするも、当時の日本は戦乱で荒れ果て、天皇にも将軍にも権威もなく、信者は増えたものの思うような成果を挙がらなかった。また、キリスト教の布教のみならず、天体の運行や自然現象の解説を行ったりして、日本の聴衆を魅了した。またキリスト教における創造主を明確にする為「ゼウス」というラテン語の名前を用いて布教した。しかし日本に滞在以来、ヴァチカンやゴアから書簡は来ず、また新たな宣教師の派遣も無いのを気にして、52年2月にゴアに帰還。日本布教を成功させるにはその影響を与えている中国布教が必要だと思い立ち、自ら広東地方へ赴くも、熱病に倒れ、12月3日早朝に没した。享年47歳であった。現在遺体はゴアのボン・ジェス教会に安置され、死後切断された右腕は、ローマのジェス教会に保管されている。
日本人を大変評価し、その書簡や口頭では「その文化、礼儀、作法、風俗、習慣はスペイン人に優る」「日本人ほど理性に従う民族は世界で逢ったことがない」と誉め称えた。
(引用 『國史大辭典』)
(参考 フィリップ・レクリヴァン著/鈴木宣明訳『イエズス会-世界宣教の旅
『モーツァルトの血痕』 辞典
ドミニコ会
ドミニコ会紋章
1206年、スペイン出身の聖ドミニコ(ドミニクス・デ・グスマン)によって創設され、1216年に、ローマ教皇ホノリウス3世によって認可されたカトリックの修道会である。
貧清に基ずく修行と神学研究を主要理念都市、その布教活動により「托鉢修道会」「乞食修道会」とも揶揄されたが、それが彼らの信条であり、カトリックの発展に大きく貢献した。
16世紀子なると、プロテスタントやカトリック教会の宗教改革に対する攻撃にも先頭に立ち、異端審問などを盛んに行い、「Domini canes」ドミニ・カネス、すなわち神の犬とも言われた。
1592年、フィリピン総督の使節として、豊臣秀吉に拝謁したファン・コボハ、ドミニコ会士であった。そして、1600年、イエズス会のみに認可されていた日本での布教活動を、教皇クレメンス8世により許可された。以後、スペインから修道士がやって来て、薩摩を中心に布教を始めた。しかし、徳川幕府によるキリスト教禁止令の公布以来、困難な布教活動を強いられ、宣教師たちは各地に潜伏しながら布教を続けたが、そのほとんどは捕縛か殉教の運命を辿ったが、その信仰は隠れキリシタンと言う形で引き継がれた。
『モーツァルトの血痕』 辞典
フランシスコ会
フランシスコ会の紋章
1209年、アッシジの聖フランシスコを中心に集まって来た11人の有志によって発足した。正式名称は「小さき兄弟会」。その基本理念は、個人の所有権を放棄し、イエスの生涯を手本にしたもので、ローマへの従順、貧しき生活、福音と使途に忠実に生き、人々に神への回心を説くことであった。1210年、その理念と説教活動を評価した教皇インノケンティウス3世により、口頭での認可を受けたが、フランチェスコ自身は修道会創設の意思は無かったという。正式な許可はホノリウスによって1224年になされたが、この間の腐乱イスコ界の発展は驚異的なものであって、数千人の修道士がいたという。
フランシスコ会は、東方の宣教にも力を入れ、16世紀にはフィリピンを拠点としたが、フィリピンでの布教は進まず、1584年にマニラからマカオに向かっていた修道会の船が遭難し、4人の僧が長崎に漂着。領主の松浦氏の歓迎を受けたところから、日本布教への道を確信した。
日本での布教は、ドミニコ会に遅れること1年、やはりフィリピン総督の使節として肥後国で豊臣秀吉に謁見したフランシスコ会士、ペドロ・バプチスタが最初であった。バブチスタは秀吉の許可を得て大坂、京都で布教するが、この公然たる活動がイエズス会の反発を買い、その危機を感じた第3次使節団は、1594年に来日した折、秀吉にスペインが経建ていな勢力を持ちつつあることを密告し、日本の情勢を把握できないまま、キリスト教への反発を増幅させてしまった。後、秀吉はマニラからメキシコを目指したサン・フェリーペ号が土佐に座礁した折に、スペインの宣教師と尖兵として乗船させていた乗組員を拿捕、侵略地としてのスペインの広大な版図を接収したことより、軍事侵攻の事実が確認された。ペドロはフランシスコ会士6名を含む信者26名とともに、1597年に長崎で処刑されている。日本二十六人聖人と呼ばれ、これは日本の最高権力者による最初の処刑であった。
1603年、フランシスコ会士ルイス・ソテロが来日し、徳川家康、忠秀に謁見するも、キリスト教弾圧にともない、一旦ヨーロッパへ戻るが、日本での再宣を誓委、1622年日本へ蜜入国するも、捕えられ、長崎にてフランシスコ会士2名、イエズス会士、ドミニコ会士各1名が火あぶりの刑となった。
『モーツァルトの血痕』 辞典
馬屋で生まれたイエス
ルカの福音に、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどり子を見つけます。これがあなた方のためのしるしです」(ルカ第2章12節)
「そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼い葉おけに寝ておられるみどり子を探し当てた」(ルカ第2章16節)の「飼い葉おけ」は、家畜小屋と訳すという説もある。したがって、西洋のキリスト教文化において、キリストは正しくは「馬小屋」でなく、家畜小屋とするべきだとの指摘はあるが、家畜のえさを入れる容器が置いてああって、そこに人も家畜も一緒に暮らしたのが当時の生活様式でもあった。
家畜小屋(ドイツ語でStal)は、そのまま馬小屋とも訳され、また、ザビエルが日本でキリスト教の布教をしていた頃は、イエスは馬屋で生まれたと解釈されていて、「アッシジの聖フランシスコ伝」のローマ字表記では、
Core Ieſu Chriſto no von xitaximino xiruxi nari. Vonmi vmaya nite vmare tamǒ ga
yuyeni, cacunogotoqu facarai tamǒ to miyetari.
(これイエスキリストの御親しみのしるしなり。御身厩にて生まれ給ふがゆゑに,かくのごとく計らひ給ふとみえたり。)
※訳、平塚徹『日本でイエスが馬小屋でうまれたとされているのはなぜか』(京都大学論集)
とある。
また『偽マタイ』第14章はドイツ語で
Am dritten Tag nach der Geburt des Herrn verließ Maria die Höle und ging in einen Stall.
と書かれ、これは、「キリストの誕生から3日後、マリアは洞窟を出て馬小屋に入った」と訳される。
『モーツァルトの血痕』 辞典
アウレリウス・アウグスティヌス
(Aurelius Augustinus)
(米国のガラス工芸家、ルイス・カムフォート・ステファニーによるステンドグラス)
(356~330) 神学者、哲学者。カソリックでは聖人とされている。
ヨーロッパでキリスト教的世界史が成立したのは古代ローマの時代であったが、それはローマ、ギリシャの起点としたものであり、ユリウス・アフリカヌス、エウセピオスなどを経て、アウグスティヌスで完成する。アウグスティヌスは、キリスト生誕を創世紀元五三四九年と計算し、終末観に関する論説をたて、永らくヨーロッパ社会においての普遍的歴史観の元になっていた。
(参考 岡崎勝世著/『キリスト教的世界史から 科学的世界史へ』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
印度に逃亡していた日本人・アンジロウ
(1511頃~?) 鹿児島県出身の資料上では日本人最初のキリスト教徒。ヤジローともアンジロウとも表記される。職業、身分は不明。漢学、仏教の素養も無い。ポルトガル商人と知り合いであったことから、貿易商であったと推測される。当時、殺人を犯してインドの教会に逃れていたが、旧知のポルトガル人船長の勧めでマラッカへ行き、キリスト教の洗礼を受けることで罪の赦しを得ようとした。この後紆余曲折あって、1547年12月にザビエルと接見した。ザビエルはアンジロウの卓越した才能を見て取り、この時点でかなりのポルトガル語を話した彼をゴアのパウロ学園にて神学を学ばせ、洗礼を受けさせた。
洗礼名は「パウロ・デ・サンタ・フェ」。
ザビエルは彼から日本人の気質、知識欲に興味を持ち、日本に関する情報を取り寄せ、日本への布教の思いを募らせた。そしてランチロットに依頼して、彼の口から語らせて、日本の地理、風俗、政治、宗教などの状況をまとめた『日本事情報告書』を作成させ、この書簡をロヨラに送った。この時点で日本布教は決定した。
アンジロウのその後の消息はすべて不明であるが、幾らかの著述を著したようである。ザビエルとの出会いの十数年後、海賊船にて中国へ逃亡し、浙江省寧波(ニンポー)付近にて、海賊に殺されたと伝えられる。
(参考 彌永信美 『幻想の東洋』) (参考 『國史大辭典』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
アントニオ・ゴメス神父
(António gomes)
インドのゴアは16世紀から20世紀半ばまでポルトガル領であった地域で、1534年にローマ教会の司教座が設置されている。アジアにおけるイエズス会の重要拠点であった。
イエズス会がゴアで活動を始めた頃、ポルトガルからイエズス会の初代総長としてゴアの聖パウロ学院に赴任したのが、アントニオ・ゴメスであった。彼は、才能のある雄弁家で、その演説は聴く人を熱狂させたというが、人種偏見、分別、謙虚さを欠いていたといい、しばしザビエルの悩みの種となっていたようである。ローマへ帰る途中、溺死。
『モーツァルトの血痕』 辞典
イグナチオ・デ・ロヨラ
(gnacio López de Loyola)
(1491~1556)
スペインのバスク地方サン・セバスチャンに近いロヨラ城に生まれる。1521年、軍人としてバンブローナ城攻防戦で敵の砲弾にて足に重傷を負い、療養生活を余儀なくされる。この間、ルドルフの『キリスト伝』、ボネラジの『聖人伝』などを読んで、自己犠牲的な生き方に憧れを抱くようになる。
22年から23年にかけて、マンレサという小さな村の洞窟で黙想し、イエス・キリストを内的に幻視する神秘体験をし、その後のイエズス会に「霊操」の原理を持ち込んだ。28年、パリ大学に入学、34年にザビエルら6人の仲間とモンマルトの誓いを立て、これが「イエズス会」となる。イエズス会は(Compania de Jesus)で、イエズス会の中隊、という意味である。会士たちの幹部への「軍隊のごとき服従」「教皇の精鋭部隊」と言われる所以はここにある。「イエズス中隊」は教皇パウロ3世より1540年に認可された。
ロヨラはその翌年、初代総長に選出され、48年に「霊操」が認可される。
ロヨラの時代に、イエズス会はヨーロッパ、アフリカ、東西インドに12管区、会士1000人、16世紀末にはカソリック世界の男子高等教育をほぼ独占した。
1556年7月31日、胆嚢炎の為ローマで没。 (参考 『國史大辭典』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
日本の金銀
彌永芳子著『日本の金』には、日本の金と砂金についての歴史とデータが豊富にあるので参照願いたい。
日本列島は純度の高い金銀が多く掘り出されるとされる。陸奥、佐渡、伊豆半島などは特に採掘された。また砂金がわりあい全国の河床で採掘されるというのも本当である。ただし、古来、日本では金の採掘はされていなかったようで、天平時代に聖武天皇の頃、陸奥に砂金が発見され、天皇に砂金900両の献上があったと『続日本紀』に記される。これを機に、錬金1万436両(約104キログラム)が奈良の大仏に要されたという。この時の錬金は全部砂金であったといわれる。砂金は以後、儀礼用に使われ、また、遣唐使への賜金や給賜、経文の購入代として、200両から100両の砂金が下賜されたという(以上『日本の金』より引用)。
なお中国では金の採掘はほとんど期待できず、日本の砂金は貴重がられたという。
安土桃山時代になって、イエズス会士たちにより西洋の精製法が使われ出し、多くの金銀が流出したと指摘される。
『モーツァルトの血痕』 辞典
東アジアと日本はポルトガルの征服地に属する
イエズス会は、イグナーツ・フォン・ボルンが指摘するように、宣教師たちの書簡が数知れぬほど存在し、それらには「門外不出の極秘文書」となっているものもある。
その基となっているのは、ローマ法王庁から出された「教皇大勅書」にある。これは、15~17世紀初頭にかけて、ポルトガルとスペインが地球を二分割することを正当化したものであった。それは異教徒を征伐し、キリスト教の布教に対するローマ法王庁の支援であり、原住民を奴隷化し、その征服、領有、貿易の独占を認める為に、両国において領土分割線を引くというものであった。それは、アフリカ大陸はポルトガル王に属し、後にはインドに至るまでの裁量権もポルトガル王に属することが、『大勅書』に認められ、スペイン王は、新大陸の了承をローマ法王に求め、承認された。これにより、スペインとポルトガル両国は、地球の北極から南極に線を引いて、地球を東西に二分割することを奏上し、1494年にローマ法王アレクサンデル6世の『大勅書』の中で「境界画定」が定められ、両国でトルデシーリヤス協定が結ばれた。これにより、ポルトガル領インドを東インド、スペイン領は西インドと呼ばれ、後に日本が発見され、これがポルトガル、スペインのどちらが征服予定地となるのかで論争となった。
つまりこれは、ローマ法王庁に認可さえもらえれば、異邦の国の領有、支配権は自動的に全部自分のものになるというものであり、日本もその中に勝手に入れられ、正当化されたのである。この考えは20世紀になっても、いわゆる白人至上主義として、世界中のほとんどの非ヨーロッパの国々が植民地化されていたことで理解できよう。
カトリックの宣教師たちは、個々の信条は別として、つまりは純粋な布教活動の結果は、ポルトガルかスペイン王の権限に属する、と言う結果になるわけである。
日本の権力者、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、忠秀らはそのことを承知したうえで、利用するだけ利用して、キリスト教宣教師を最終的に追い出す政策は、その勝手な白人至上主義に関する大きな最初の抵抗であったといえよう。
また、大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争)は、アジアから白人至上主義を追い出そうとするものでもあり、戦後、アジアやアフリカで独立運動が起こって、ヨーロッパの国々は植民地を失うことになった。
これも、日本による抵抗からはじまったものといっていいだろう。
『モーツァルトの血痕』 辞典
地球創世紀元前5349年
キリスト教は終末を意識した宗教である。終末の後に、神の国を実現する。この終末がいつであるのか? という計算がもとにあって、キリスト教年代学が成立し、ヨーロッパのキリスト教史である普遍史ができあがったといっていい。
聖書をそのまま信じると、人類の歴史は天地の始まりとアダムとイヴの創造より始まる。そして終末があり、最後の審判が下され終点となる。その間の時間軸がこの地上の全ての空間であると、特に中世ヨーロッパでは信じられていた。ユリウス・アフリカヌス(170~240)は、聖書の記述を読み解き、「主は六日の間に全ては完成される」という記述を6000年と考え、イエスの生誕は天地創造から5500年とし、エウセビオス(253~339)は、5199年とした。そしてアウグスティヌスは5349年と計算したのである。
しかしこの数字が、ルネッサンスや大航海時代に発見されたエジプト、中国の5500年の枠を越えた歴史があることが認識され、この枠を普遍史の中に無理やり取り込むことに、17、18世紀の学者や宗教家が頭を悩ますことになるのである。
(参考 『キリスト教的世界史から科学的世界史へ』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
中国
ポルトガル、スペインのアジア進出は「湖沼と霊魂」といわれ、貿易で稼ぐこととカトリックの布教は結びついていた。
ザビエルは、日本布教を1549年から始めたが、52年には中国布教を目指してマカオに向かうが、途中で病死。しかしその後、宣教師は中国に続々と渡来する。マテオ・リッチは特に有名な宣教師で、天文,地理、や西洋の機器を中国にもたらせた。時は明朝末期から清朝発足の混乱期で、彼らが伝えた大砲などが内乱に使用されることになる。
清朝となっても朝廷はカトリックの布教活動を認めたが、イエズス会の中心がフランスに移ったことにより、ドミニコ会やフランシスコ会はこれに反発し、典礼問題が起きた。
中国の風習や習慣をある程度認めながら布教していったイエズス会に対して、そのような布教は鴨への冒涜であるとローマ教皇に訴え、教皇庁でも論争が起きた。これか典礼問題である。
1704年、これを受けたローマ教皇クレメンス11世は、イエズス会の布教方法を否定し、認めないと結論付けたが、清の第4代皇帝康熙帝は、イエズス会以外の布教を認めないとして、典礼を拒否する宣教師の入国を拒否した。続く第5代皇帝雍正帝は、1723年、キリスト教布教を禁止した。これにより、朝廷に仕えていた宣教師は北京に残留が許されたが、それ以外の宣教師は国外に追放されてしまった。これにより、ヨーロッパからの学問、技術の流入も実質的には閉ざされることになった。
ヴォルテールはこの件に対して「シナで最も英邁かつ最も寛仁大度な雍正帝がイエズス会を放逐したというのは、いかにも事実である。しかしこれは皇帝が不寛容だったからではなく、その反対にイエズス会士たちが不寛容だったからに違いない」としている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
十二支族
『旧約聖書』に書かれたイスラエルの十二支族とは、元来神から与えられたカナンの地に住んでいたイスラエル人の部族を指す。ノアの子孫とされるが、アブラハムの時代に神の勅命が降りて、アブラハムはイスラエルと改名。これがイスラエルの発祥である。
アブラハムの孫ヤコブは12人の息子を作った。その12人の息子がそれぞれ族長となり、12支族となった。
12の支族(部族)とは次の通りである。
ルベン族
シメオン族
レビ族
ユダ族
ダン族
ナフタリ族
ガド族
アシェル族
イッサカル族
ゼルブン族
ヨゼフ族
マナセ族とエフライム族
ベニヤミン族
ただし、民数記によると『レビ族』は神に直接仕えるため、人口調査をした時、調べられなかったとあり、これを数えず12支族とする場合もある。
『申命記』ではヨゼフ族と呼ばれているマナセ族とエフライム族を、別々に数え、レビを除いた十二支族とされる場合もある。また、シメオン族は「申命記」でモーセの祝福の中で呼ばれていないので、ユダ族に吸収され、早くに消滅したと考えられ、代わりにレビ族を数えて十二支族とすることもある。
『モーツァルトの血痕』 辞典
失われた十支族の行方
十二支族は、ダビデ王の頃にはイスラエル王国に一つとなって生活するが、ソロモン王の死後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれ、北王国は紀元前722年にアッシリアによって滅び、その指導者たちは捕囚となってアッシリアに連行された。その数27290人。これは北王国の全人口の1/20であるという。つまり北王国の人民は捕囚とならず、周辺諸国に離散し、イスラエル人としてのアイデンテティを失い、異民族と混血したとされる。
南王国には、ユダ族とベニヤミン族の二支族がいたため、彼らによって北王国にいた同胞を「失われた十支族」とよばれるようになった。
ユダ族とベニヤミン族は、その後新バビロニアによって南王国も滅ぼされ、彼らもバビロニアの捕囚となるが、やがてバビロニアが滅んで、エルサレムに帰還。彼らが今のユダヤ人の祖となるのである。
失われた十支族は、今もイスラエル政府によって捜索がなされている。
日ユ同祖論は、この失われた十支族のうち、エフライム、ガド、イッサカルなどが日本に移住したという仮説であり、また、秦氏が十支族ではなかったかという説もある。
『モーツァルトの血痕』 辞典
最も重要な神
今はそういう信仰は、一部地方にしか残っていないが、昭和の30年くらいまでは、お年寄りたちが、太陽に向かって手を合わせ、あるいは柏手を打って礼拝する信仰は残っていた。
現在も太陽信仰の名残として、新しい年の日の出を拝する元旦や、高い山の頂上から昇る太陽を拝するご来光などは、日本にのみに存在する太陽信仰である。また、秋に月見と称し満月を鑑賞するのも月信仰の名残である。
1557年にイエズス会の宣教師が書簡でこのようなことを書いている。
「日本人は太陽と月を生きている存在と見なしているし、また、最も重要な神と見なしている。太陽は日本の最初の王だという人もいる。
ザビエルも1549年に鹿児島からゴアにいる同僚に宛てた手紙で「彼らは誓いません。誓うとすれば太陽に誓います。彼らは動物の形の偶像にはけっして誓いません。たいていの人は、昔の人を信仰します。私が聞き知ったところでは、それは哲学者のように生きた人々でした。多くの人は太陽を崇拝しますが、月を崇拝する人もいます」
引用、ゲオルグ・シェールハンマー著、安田一郎訳『イエズス会士が見た日本の神々』」
『モーツァルトの血痕』 辞典
ミヤを見れば分かる
神社と幕屋見取り比較図
神社とモーセの幕屋の見取り図を比較したもの。
『モーツァルトの血痕』 辞典
トリイ
聖徳太子によって建立された四天王寺の鳥居
(現在のものは鎌倉時代のもの)
鳥居。
神社において、神域と人間界を区画する結界の、出入り口を示す門。
本来は、屋根のない門をいう。
学術的には、これはいつから作られるようになったのか、何を意味するのか、なぜトリイというのかの一切のことは判明していない。
鳥居の最初は大阪市の四天王寺西門に建てられたのが最初であると筆者は推測しているが(詳しくは拙書『聖徳太子 四天王寺の暗号』参照』)、これは太陽信仰の為の装置であり、また、鳥居の存在する場所には、清らかな水が存在するというシグナルでもあったと思われる。現在は寺に見られる鳥居もあるが、これは平安時代からはじまった神仏習合の痕跡である。したがって筆者の見立てでは、四天王寺は聖牛の信仰をともなう牛頭天王が主神とされた天皇の為の祭祀場であったと考えられる。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ヤキンとボアズ
ソロモン神殿の前に建つ、ヤキンとボアズの柱
ヤキンとボアズに関しては、フリーメーソン関係の説明で何度か解説したが、四天王寺の鳥居はヤキンとボアズに対応している。
ヤキンとボアズは2本の柱が、フリーメーソンの儀式場の出入り口となる。それは、四天王寺の鳥居のように、北と東に配置されるとするが、それは西に向けた入り口を意味することとなる。そのフリーメーソンの儀式は太陽神とみなされるイシス、オシリスであり、東に向かうことで一度死んで、再生するという聖劇が行われるが、四天王寺も鳥居から東へ向かうことで、太陽の復活、再生を象徴するのである。
もともとヤキンとボアズがソロモン神殿の門前に作られたものであり、それが鳥居に似ているという指摘があるが、これは偶然なのであろうか?
『モーツァルトの血痕』 辞典
コマイヌ
狛犬
狛犬。
神社の出入り口に設置される想像上の守護獣像。向かって右側が口を開いた角無しの「阿像」、左側が口を閉どた「吽像」とされ、阿吽で狛犬であるという。
犬というより形は獅子であり、狛は朝鮮半島の高麗、高句麗から来たといい、遣唐使が中国から持ち込んだという説もあり、平安時代の後期に始まったという。しかし、この獅子像を宮殿前に置くという形式は、古代オリエントで見られるもので、古代エジプトでは地上最強の動物である獅子を王の椅子(玉座)の肘掛けに刻んだり、エンブレムとして使用した例もあり、あるいはスクフィンクスも狛犬の遠い祖先であるという指摘もある。
しかし、鳥居の起源同様、学術的にははっきりとした結論はでていない。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ユダの象徴
ユダ族の象徴
イェルサレムのシンボルマーク
ユダ族と獅子
〈創世記〉第49章9節にはこう記されている。「ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように。彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか」
〈ヨハネの黙示録〉第五章五節にはこう記されている。「ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻物を開いて、七つの封印を解くことができる」
現在イェルサレム市のシンボルマークは、立ち上がって吠える獅子である。
『モーツァルトの血痕』 辞典
洗盤を思わす手洗場
清めの洗盤
幕屋には、東の門から入ると、庭を通って聖所へと向かうが、その前に全焼の生贄を捧げる祭壇があり、その祭壇と聖所の間に、水を貯めるの青銅で作った大きな容器が置かれた。
これは生贄の血を洗ったり、又、清めの為に手と足を洗うために設置されていた。これは容器から水をくみ取って、洗うものであった。
つまり聖所に入るためには、水で身を清めることが風習としてあったことを意味するものである。
日本の神社にも大抵は鳥居から入ると、手洗場、あるいは手水舎があり、ここに貯めてある水をひしゃくでくみ取って、手足を洗い清める、あるいは全身を洗って清めることによって、穢れを祓ったのである。神社の手水舎は岩を繰り抜いたものや水瓶のようなものを用いたこともあったようである。これは手水鉢とも呼ばれる。
現在は全身を洗うということは難しくなったが、伊勢の五十鈴川や、京都の木島神社における元糺の池などは、全身を洗い清める為に手水舎であった。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ミコシ
ミコシ(神輿)
神輿。
神社の祭りの際、神社にいる神霊が入り、一時的に鎮まる移動する神の箱であるともいえる。
画像のものは、日本各地の祭りで見られるスタンダートなタイプの神輿。
台車に載せるものもあるが、通常は神官や氏子によって担がれるものである。その発祥や意味は判然としない。
『モーツァルトの血痕』 辞典
神の契約の箱
契約の箱
フランス南西部オーシェ
サント・マリー大聖堂のリレーフに彫られた契約の箱
モーセがシナイ山で神から授かった十戒石を治める為に、神が作らせた箱で、神の伝令によって、神と約束した石板が収められる箱であることから、契約の箱と呼ばれる。
スティブン・スピルバーグ監督の映画『レイダース/失われたアーク』のアークは、この契約の箱のことであり、神の超常的なパワーが秘められていると解釈されている。
「証の箱」「聖櫃」などとも呼ばれる。
この匵に関しては『旧約聖書』出エジプト記第25章8~10節、16節、第31章18節などに詳しく記されている。
アカシアの木でできていて、長さ2、5、幅1、5、高さ1,5キュビット。内側にも外側にも金が被せられ、純金の蓋がなされた。蓋の上には羽の生えたケルビム(天使)が対となって置かれ、箱の横には金の環が付けられ、箱を持ち運ぶときには直接手でふれることは禁止され、環に竿を通して、竿で持ち上げることによって、担いで運ぶのである。
箱は、持ち運ばない場合は、幕屋の至聖所に置かれ、司祭や人々からは見えないように幕で仕切られていた。
イスラエル人たちがイェルサレムを約束の地として留まり、ソロモンの神殿の至聖所に納められ、神殿が破壊されると無くなっていたことから、失われた箱、失われたアークと呼ばれるようになった。
日本の神輿は、そのアークが原型ではないかとする人たちもいて、日ユ同祖論の論証にもしばしば登場する。
『モーツァルトの血痕』 辞典
シントーの祭壇にも肉が捧げられていた
神道と肉の礼拝
ヘブライの信仰と神道の全く相いれない風習の一つに、ヘブライには血の契約という生贄が規定されているが、神道には血のイメージは全く無いことである。ただし、それは今日の神道であって、古代(平安初期)までは牛馬を殺して祈るという神事は日本の各地に残り、『続・日本紀』には延暦10年と20年に、動物犠牲の神事を朝廷が禁じた事例が記されている。それらは考古学的に佐伯有清、桜井秀雄などの発掘記録、研究成果を参照されるとよい。
また、民俗学者喜田貞吉によれば、「神主のことを古来『はふり』という。また動物を殺すことを『ほふる(屠る)』という。神主は同時に畜殺即ち『ほふる』ことを行ったので、両者同語を以てあらわすこととなったと認められる(『民俗と歴史』第二巻第一号『上代食肉考」)としている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ケンプファー
次章、第八章で詳しく紹介。
『モーツァルトの血痕』 辞典
存在しないもの
16世紀以前の日本
湯永信美著『幻想の東洋』に、次のような指摘がある。引用する。
「アメリカが1492年に発見されたとすれば、日本も1542年または43年に発見された(ポルトガル人の種子島への漂着)。日本が『極東』の国になったのはそれ以来のことである(その極東の日本人が、こんにちでは『西側陣営』に属するという……!)。この日本の住民が、自らを『東洋人』であり『極東人』であると信じて疑わないのは、いうならば一五四二年以前には日本は存在しなかった(または未知の存在であった)と信じることに等しい……」
『モーツァルトの血痕』 辞典
フェルナンド・マゼラン
(Fernando de Magallanes)
(1480~1521)
ポルトガル生まれの探検家。
マゼランは、スペイン王の親任をけて、1510年9月20日、5隻の船を先いてスペインのセビリア港を出港し、南北アメリカ大陸の海峡を越え、太平洋に出て、3年目にフィリピンに到着した。もともとは、東洋貿易の拠点を持たなかったスペインが、インドネシアの香料諸島と呼ばれたモルッカ諸島への西周りルートの発見を目的とした航海であった。その背景には東回り(アフリカの希望峰周り』のルートを持ったポルトガルが、インド航海ルートを持ち、莫大な利益を得ていたことにあった。
南米大陸の南端の海峡は、彼の発見によりマゼラン海峡と名付けられた。また、このルートから太平洋に進出したのは、ヨーロッパ人では初めての快挙であった。フィリピンの原住民に洗礼を受けさせようとしたマゼランは、セブ島の住民の反撃を受けて殺害された。
しかし、船団はその後も航海を続けて、1522年にスペインに戻り、人類最初の世界周航に成功した。
マゼランの船団の探検により、地球球体説は実証され、また、航海日誌を書いていたアントニオ・ピガフェツタは日付のズレから時差を発見した。
また、アジアは(勝手に)ポルトガル領になっていたが、世界が球体であることが確認されたため、スペインとポルトガルの間で、反対側の子午線での領土の分割が決められ、1529年にサラゴサ条約が締結。以後、未発見の地であった日本はポルトガル領となった。
戦国時代に種子島に上陸したのも、最初の日本布教を行ったのも、ポルトガル人(ザビエルはバスク人だがポルトガル国王の依頼で東方宣教をはじめている)だったのも、それが原因であった。
1544年ころに描かれたアメリカ大陸の地図
『モーツァルトの血痕』 辞典
霊的なもの
『聖書』の神とは霊である。霊であることが前提であり、神の霊感によって『聖書』は記されたとされている。
〈テモテへの手紙〉第3章16。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」
〈コリント人への手紙〉第2章10節~11節。
「神はこれを、御霊(みたま)によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかに誰も知りません」
〈ルカの福音〉第10章21節。
「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがあなたのみここにかなったことでした』
など、精霊、御霊として神が現れる記述は数え切れない。霊は、霊魂と解釈するのではなく、風、雲といった意味、つまり神の息吹と解釈されるのだという。だから神の霊感で記された『聖書』の言葉は、まさに言霊(ことだま)そのものである。
「風は思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それはどこから来てどこへ行くのかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」
〈ヨハネの福音〉第三章八節。
つまり、ここで言う日本人や日本の国土に霊的な何かを感じた、ということは『聖書』の神の息吹、神の御霊(みたま)を感じたということである。
なお、この考えはまさに日本の古神道のものそのものでもある。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ロヨラに送った書簡
湯永信美氏は『幻想の東洋』の中で、インドにおけるザビエルと、日本人アンジロウと出会ってからの心境の変化を書簡により読み取っている。
「(ザビエルが)インド到着後からこの時(三人の日本人に出会った時、三人とはヤジロウ=パウロと二人の従者アントニオ、ジョアン)まで、彼の書簡は不思議なことに、『インド人とはこういう人々である』といった一般的印象、評価を述べた記述がほとんど見当たらない。わずかに、モルッカ諸島に布教に赴いた時の住民の印象を書いているが(一五四六年五月一〇日)、ほとんど嫌悪感を直接ことばにしたような様子で、冷静な判断に基づいたものとは思われない。たとえば──この島の住民たちはきわめて野蛮で、背信行為は日常のことです。彼らの皮膚は黒いというよりも(むしろ)黄色がかった褐色をしていて、極端なまでに恩知らずです。この地方の島々では、他の部族と戦い、喧嘩して人を殺した場合、殺された人の肉を食べます。……その島の人びとが信者になりたいと言っていますので、私は(モロタイ)島へ行きます。彼らのあいだでは淫乱の忌まわしく罪深い風習があり、それはあなたが信じられないくらいで、私も書く勇気がありません。」などなど──それ以外は、インド到着からヤジロウら日本人に会うまでの5年間(1542年5月~47年12月)、ザビエルの書簡には自分が布教しようとしている相手の人々が、どんな民族で、どんな風俗、習慣をもち、どんな考え方をするかということを、冷静に知り、分析しようとした形跡がほとんど見られない。彼はむしろ日々の状況の中に埋没し、そこでただ必死に暗中模索を続けているように見える。この時期ザビエルは生の生活の次元、日常の次元ではインド人、東南アジアの住民に接していたが、知の次元では彼らと全く出会うことをしていないのである。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ある書簡
ザビエルの書簡書にはこのようなことが記されている。
「神の慈しみをより深く説明するにあたって、私は、日本人はよりいっそう理性に従う国民であり、今まで出会った異宗教者には決して見られないものだと思う。彼らは好奇心が強く、どん欲に質問をし、知識欲は旺盛で、その欲求には限りがない。また、彼らの質問に私たちが答えたことを、彼らは互いに吟味し、話しあうことが尽きないのである」
『モーツァルトの血痕』 辞典
日本人はその創造主である神の掟を産まれながらに持っているのである。
ザビエルの書簡にこのように記されている。
「日本人はシナ人から宗教を貰い受けないうちから、自然の法則によって、殺すことも、盗むことも、偽証することも、十戒に書かれるその他の罪も、それわ犯すことは罪であることを知っている。その証拠には、これらの罪を犯した者は、誰も良心の呵責を感じているのである。私たちは彼らに、理性そのものが悪を避け、禅を行う道であることを示した。しかし、それは人間の心の中にしっかり植え付けられており、誰もそんな教えを正式に教わるまでも無く、自然とその創造主である神の教えを知っているのである(略)。自然の創造主である神ご自身のほかに、この知識をどのようにすれば得ることが出来るのかを教えてくださる方があるでしょうか」
『モーツァルトの血痕』 辞典
ジョアン・ロドリゲス
(1561~1633)。ポルトガルのセルナンセリェに生まれる。
天正5年(1577年)に十代で来日。その翌年にイエズス会となった。日本に来る以前より日本語に長じ、通訳、日本管区の会計係を兼任しながら流暢な日本語で布教に周った。また家康、秀吉らとも知遇を得て、仏僧との論戦にも勝利したという。約30年間日本に滞在した。日本文化を尊び、日本語を勉強しないイエズスの宣教師を怠惰だと怒りを持っていた。通訳をしていたためツーズ(通事の意味)と呼ばれていた。在日イエズス会の中では最高の日本語学者として長崎で『日本大文典』を刊行した。また『日本教会史』を没年まで編纂していたという。
1610年に、長崎の貿易と政治問題に介入したため、マカオへ追放され、その地でヘルニアのため没した。
『モーツァルトの血痕』 辞典
偶像崇拝
日本の偶像崇拝
日本には元々偶像崇拝は無く、いわゆる神道にも基本的には偶像崇拝の観念は無い。山が信仰の対象であり、川が、樹木が、巨石が、太陽や月が……。
ただ当時の宣教師たちには神社にある狛犬、稲荷の狐などは動物の偶像崇拝と見てとれただろう。また仏教においては、奥寺院には釈迦の象徴としての仏像(如来像や明王像、観音像)などが寺の本尊や脇神として多く坐っていた。特に宣教師たちが活動していた頃の日本は、仏教と神道は混合し、その形は多種多様に映り、さぞ悪魔的な印象をもたらせたものと思われる。ただし、狛犬のルーツは獅子である。獅子はライオンを意味するが、古代から日本にライオンは生息していない。エジプト、インドを経て朝鮮半島からやって来た、想像上動物の聖域を守護する動物である。朝鮮半島の高麗を、こまと称したことから、高麗から来たという意味で狛犬(こまいぬ)と称したという説もある。ちなみに、エジプトの狛犬の最大のものが、ギザの大スフィンクスであると思われる。
『モーツァルトの血痕』 辞典
今の宗教がわたる前
仏教のことである。
『モーツァルトの血痕』 辞典
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
(1539~1606)イタリアのナポリに生まれ、ヴェネツィア共和国のバドヴァ大学にて法律学を学び、その直後イエズス会士となる。1573年、自ら望んだ東インド管区巡察使となる。この東インドとはエチオピアから日本までも含む広大な土地を示していた。日本には79年7月25日(天正7年7月2日)に上陸。この時、宣教師のほとんどが日本語を喋れないことを障害の要因だとし、日本語の文法書『日本文典』、スペイン語との『日西辞典』の編纂、あるいは『平家物語』『伊曾保(イソップ)物語』なども出版した。また、有馬や安土にセミナリヨという神学校を開設したりした。ヴァリニャーノはこのような教育に対する日本人の習得能力を優秀であると称え、最下層の人たちでさえも、日本人全員が同じ学校で教育されたようだとも評価している。
なお、日本に最初にオルガンを持ち込んだのはヴァリニャーノだと言われている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ルイス・フロイス
(Luís Fróis)
(1532~ 1597)
ポルカドルはリスボン生まれのイエズス会宣教師、司祭。
16歳でイエズス会に入り、同年、インドのゴアへ行き、聖パウロ学院で学ぶ。
ゴアで日本へ向かうザビエルとヤジロウに会い、日本布教を志し、語学と文筆に才能を発揮した。29歳で司祭となる。
1562年に長崎県北部に上陸。日本での布教を始めたが、この時はザビエルは亡くなっていた。フロイスは、日本布教の為に日本語を学び、風習を尊んだ。1564年には京都で布教を行った。一時期、足利義輝に保護されたが、彼が暗殺されると京都を追われ、摂津の堺に避難した。
1569年、二条城の建築現場で織田信長と接見。信長とは気があったようで、機内での布教が許可され、ナェッキ・ソルディらと精力的に布教活動を行った。
その後、九州で布教をするが、1580年、アレッサンドロ・ヴァリアーノが来日した時は通訳として再び、安土城で信長と接見した。しかしこの頃、イエズス会の総長の意向で、フロイスを布教から身を引かせ、日本でのキリスト教布教史を書くことを依頼した。
1583年、この指令を受け取ったフロイスは、以後10年にわたって執筆活動を続け、全国を巡りながら『日本史(Historia Iapan)』を上梓した。この記録は、キリスト教徒の白人から見た戦国時代の日本や、信長や秀吉など武将についての人柄や動向、あるいは庶民の生活ぶりなども記載され、貴重な戦国時代を知るための研究書に位置づけられる。
また、人物名や地名などがローマ字表記であるため、当時どのように発音したのかもうかがい知れる内容になっている。
時代は信長から秀吉へと移り変わり、最初はキリスト教の布教を許可していた秀吉も、天下統一を目の前にすると、キリスト教に危機感を抱くようになり、1587年にはバテレン追放令を出し、フロイスは長崎に身を寄せ、執筆活動を継続。一時マカオへ行くも、1597年に再び長崎に戻り、『26聖人の殉教記録』を最後に、同年長崎で65歳の生涯を閉じた。
当時、九州はポルトガルの貿易の拠点であり、経済的利益の面から重要大気とみられていた。フロイスの行動は、あるいはイエズス会の意に沿ったものであったかも知れない。
フロイスの原稿は、あまりに長大だったので、マカオの司教座聖堂に留め置かれたが、1742年、ポルトガルの学士院が写本を作成し、ようやくポルトガルに送られた。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ニェッキ・ゾルディ・オルガンディーノ
(Organtino Gnecchi‐Sold)
(1533-~1609)
イタリア北部カスト・デ・ヴァルサビア出身。
1556年、イエズス会に入信、ロレート修院長を務めたが、次第に東洋での布教に関心を持つようになる。
1570年、天草に上陸。その後京都での布教をルイス・フロイスらと始め、30年間その困難な布教活動に従事した。日本語に堪能で、「米を食べ、法華経を知り、物騒の様な格好をし、性格も明るかったことから「うるがんばてれん」と呼ばれ、日本人に人気があったという。近畿地方における布教活動において、宣教師たちはめざましい成功を得るが、これはニェッキの功績、人柄におうことも大きかったようである。京都では、信長、秀吉とも知己となり、信長の許可を得て安京都に南蛮寺(教会童)、さらに安土城の外堀に日本最初のラミナリヨ(カトリックの神学校)をヴァリニャーノと共に開設した。科目には、日本文学、キリスト教理、ラテン語、修辞学、音楽などがあり、茶室のある座敷もあったが、安土城が焼失した折に放棄された。また、バテレン追放令とともに南蛮寺も打ち壊され、彼も九州に逃避した。
晩年は秀吉に京都在住を許されたが、1605年、長崎の神学校へ戻りもそこで生涯を終えている。
オルガンディーノは、日本人を評価し、「私たちヨーロッパ人は互いに聡明に見えるが、日本人と比較すると、は奈派だ盤であると言わざるを得ない。私は本当のところ、毎日日本人から教えられることばかりであることを白状する。私には全世界でこれほど天賦の才能を持つ国民はいないと思う」と、書簡に記している。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ファン・フェルナンデス
(Juan Fernández)
(1526? – 1567)
ショアン・フェルナンドスはスペイン語読みで、当時の日本布教を伝えるポルトガル語では、ジョアン・フェルナンデスと表記される。
スペイン、コルドバに生まれる。
1549年、ザビエル、ヤジロウ、コスメ・テ・トーレスらと共に鹿児島に上陸した、日本におけるキリスト教宣教師の第1次世代のイエズス会宣教師であった。
彼もヤジロウから日本語を学び、行動を共にしたトーレスの通訳をしながら、宣教師たちに日本語教育を施した。トーレス(1510~70)は、日本における布教のやり方を作った人物で、日本文化を尊重し、日本食補食べて、日本の暮らしに融合した。このことが一時は日本布教の精候をもたらせたのである。フェルナンデスも彼を助けて、日本各地での布教活動を行った。また、優れた日本語で、日本の宗教書の数々を翻訳し、日本語の文法書も作成した。
1567年布教先の平戸で病死した。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ギョーム・ポステル
( Guillaume, Postel)
ギョーム・ポステル 肖像画
ポステルの数奇な人生については『幻想の東洋』に詳しい。同書より抜粋、引用してみる。p316~332
「1501年、フランスのノルマンディーの寒村に生まれる。8歳で孤児、13歳で教区学校の教師、15歳でパリに出て、サント=ハルブ学寮に住み込んだ。ここで独学でラテン、イタリア、イスパニア、ポルトガル、ヘブライ語やアラブ語の初歩も学んだ。30年に文学士となり、35年イスタンブールへと赴き、以後、トルコからギリシャ、シリアへ旅行し、アラブ、トルコ、コプト、アルメニアの各国語を修得したという。この間に編纂した東洋の図書コレクションを持ってパリへ戻り、38年、コレージュ・ド・パリ(著者注・フランスの学問、教育の国立の最高機関)の前身にあたる「国立教授団」(著者注・1530年にフランソワ1世により設立)に、『数学ならびに東方諸国語の進講役』として迎えられた。一時はヨーロッパ東洋学の最高権威として君臨した。ところがある時、天の啓示を聞き、国王フランソワこそは真に神に従い、誠心から聖体を拝領するならば、イェルサレムを首都とした『世界帝国』の首長となりえよう──。とした預言を国王に伝えたが、これを国王は狂人扱いし、失望したポステルはイエズス会に入会する。しかし、やがて考えの相違よりイエズス会をも追われる。後、ヴェネツィアの施療院の司祭として、『貧困、軽蔑、苦悩』の日々を過ごす。ところがポステルはこの施設で不思議な、台所まかない婦として働く50歳の女性、(彼はメール・ジャンヌと彼女を呼んだ)で出会う。彼女は投資能力をもち、聖体を拝領する時には『あたかも十五歳の少女であるかのように』光り輝く『篤信女(ペアト)』だった。その彼女の超自然的知恵に導かれてポステルは、ユダヤ神秘学最大の奥義書『ゾハール』、カバラの重要典籍『バーヒール』、新約外典の『ヤコブの原福音書』などの翻訳にいそしむ……。
51年、2度目の東方遍歴からパリへ戻り、メール・ジャンヌの死を知った彼は、『メール・ジャンヌ=ヴェネツィアの処女』と『新たなるアダム』キリストの長子として『再生』されたポステルは、不死なる第二のカインと自称し、その証明の為に公然の前で火刑になることを約束する。──が、実行されず、ポステルは自らが巻き起こしたスキャンダルから逃れるためパリを脱出。ボルドーでは『ヨハネ──カイン』と名乗って『狂人』として髪を剃られ、トゥールーズでは『再来した福音記者ヨハネ』と自称して、再度火刑の試練に挑もうとした。
54年に、ウィーンで『東方諸国ならびに数学の国王付き教授』となり、フェルナンド一世に会見するも、ここでフランソワ一世に述べた預言を繰り返す。──ただし、世界皇帝になるべく神に選ばれたのは、フランス王ではなく、神聖ローマ帝国の皇帝であるという──。
ポステルはその後も異端審問にかけられ、狂人を装い死刑をまぬがれたり、リヨンで獄中生活を送ったりして、62年頃パリへ戻る。しかしパリ最高法院はポステルの逮捕を命じ、修道院での軟禁生活を余儀なくされ、晩年の17年をここで過ごし、1581年に没した。
彼は生涯で66以上の書物や印刷物を刊行したという。
『モーツァルトの血痕』 辞典
サン・マルタン・デ・シャン修道院
サン・マルタン・デ・シャン修道院
パリ最古の教会のひとつであるサン・マルタン・デ・シャン教会は6世紀にキルデベルト一世によって建てられた。その名は当時の司教・聖ジェルマンに由来する、ベネディクト修道会に属するものであったが、何度か破壊され、現在は12世紀に再建されたものだという。
現在は、パリ工芸博物館の一部になっていて、教会堂内部には、以前フーコーの振り子(レオン・フーコーが1851年にパリのパンテオンで、地球の自転を証明する為に公開実験を行った時に使用された振り子)が設置してあった。
ノートル=ダム大聖堂とセーヌ川を挟んだ左岸に位置する。
『モーツァルトの血痕』 辞典
ティコ・ブラーエ
(Tycho Brahe)
ティコ・ブラーエの肖像画
(1546~1601)
デンマーク出身(現在はスウェーデン南部)の錬金術師、天文学者。
デンマークでも最も有力な貴族の出身である。
14歳のときに、占星術師が予言したとおりの日食を目撃し、以後天文学にとりつかれることとなる。ある学生と数学の問答をして負け、鼻を削ぎ落とされて以後、自家製の真鍮製のつけ鼻をしていたという。
彼は、月が地球の周囲を公転し、惑星が太陽の周囲を公転していることを正確に理解したが、太陽が地球の周りを公転しているという誤認もしていた。
膨大な天体観測記録を残し、そのデータは後にケプラーが利用し、ケプラーの法則を生み出す基盤となった。ブラーエは、彗星や新星を次々発見するが、長年地動説には異を唱えていた。そして占星術の信用性を重要視し、神秘学をも修得していた。
ティコの宇宙モデル
地球を周回する青い軌道上の天体は月と太陽。太陽は地球の周りを周回している。
太陽を周回するオレンジ色の軌道上の天体は、水、金、火、木、土星である。
そして天体を被っているのが恒星球。
『モーツァルトの血痕』 辞典
『日本事情報告書』
日本人アンジロウの口述を元に、ランチロットが作成した日本に関する報告書。1548年12月26日付で、ロヲラ宛にヨーロッパに送られた。
報告書の中で、特に大きな位置を占めたのは、日本の宗教、特に仏教のことでああり、神道及び神についての記述は皆無であったという。しかしこの報告書で、仏教についての知識が飛躍的に広められ、知の対象としての異宗教に出会う可能性を作ったとされる。 (引用 『幻想の東洋』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
最初に日本についての諸説を公の出版物
ポステルが残した「日本について記した出版物」
ポステルが一五五三年、パリで公刊された書物『世界の脅威、就中インドならびに新世界における嘆賞すべきことどもについて──これらの国々に滞在し、もしくは最近までそこに住み、帰ってきた最も信頼すべき人々の記録の抜粋にして、かつ地上の楽園の所在を明す史書』の前半の大部分において、日本のことの記述にあてている。この時、アンジロウ=ランチロットの『日本事情報告書』を仏訳して、その全文を掲載した。
(引用 『幻想の東洋』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
シアカはイエスキリストである
釈迦=イエス・キリスト論
これに関して詳しくは『幻想の東洋』のp350~355を参照願いたい。
『モーツァルトの血痕』 辞典
エンゲルト・ケンプファー
エンゲルベルト・ケンペル(英語読み)
(Engelbert Kämpfer)
江戸城で西洋のダンスを披露するケンペル
(1651~1716)
ケンプファーはドイツ語読み。日本では、オランダ語読みのケンペルと呼ばれることが多い。本来ならば、英語読みで表記統一をし、ケンペルとするところであるが、重要なキーパーソンであるため、あえて、ドイツ語読みのケンプファーとする。(なお、引用文献などで名前を出す際はケンペルの読みで出版されているものが大半であるため、ケンペルとさせて頂いた。著者注)
ドイツのムレゴという町に牧師の子として生まれる。子供の頃は魔女狩りが横行していたという。ハーメル、リューネブルク、メクレンブルク、ホルスタイン、ハンブルク、リューベック、ダンチヒなどで哲学や古典語、歴史、様々な外国語を学ぶ。クラカウで修士の資格を取得するも、医学、薬学、博物学の研修にも没頭した。82年、ストックホルムで知己を得たサムエル・ブフェンドルフの推薦により、スウェーデン公使館書記官の地位を与えられ、国王チャールズ一世の企画した陸路によるペルシャ派遣の使節団に加わった。
83年3月20日にストックホルムを出発、アポ、ナルヴァを経由して7月7日にモスクワに入り、ロシア皇帝に謁見、その後、カスピ海を渡り、コーカサス山系の麓伝えに進み、翌年3月24日にペルシャの首都、イスファハンに到着した。ただしペルシャ国王との謁見は、宮廷付きの占師の進言により、7月末になったという。この使節団は、スウェーデンの宮廷とペルシャの宮廷との真に陸路による交通路を解説し、ロシアとの関係で交易と周辺の安全通過を認めさせることが目的であったという。ケンプファーはその間、東インド会社との人脈を作り、使節団を辞してオランダ東インド会社の船医としてバンダル・アバス、さらにオランダ領バダビアへと渡り、空席であったバダビア病院の委員長と薬剤師のポストが与えられると思っていたが、裏事情によりどちらにも就任出来なかった。この間ケンプファーは植物の採取、研究を怠らなかったが、やがて、出島商館付の医者として日本へ行かないかという打診があり、躇うこと無く、日本行きを決意した。
バダビアを90年5月7日に出稿し、シャムを経て長崎に着いたのは9月24日であった。以後、日本での滞在の記録は、次項にて述べる、彼自身が著述した『日本誌』に記載される。日本には3年間滞在し、その間、江戸へ二度も赴き、徳川綱吉に謁見した。
92年10月31日、長崎を出航。バダビアを経由して、95年に12年ぶりにヨーロッパの土を踏み、一四年ぶりに故郷へ帰りついた。その後、領主のヘンリヒ伯爵の侍医として迎えられたが、これまでの冒険を著述に著そうとしていたケンプファーには負担であったようだ。
1700年に30歳年下のマリア・ソフィアと結婚するも、ケンプファーの著述を理解せず、侍医としての名誉が目的であったため、夫婦間はうまくいかず、ケンプファーを悩ました。
とはいえ、2人の姉妹と、男の末っ子の3人の子供が生まれた。やがて12年、『廻国奇観』というラテン語の著作を発表。全5編912項に及ぶ大冊であり、ペルシャに関する事柄、事情がそのほとんどを占め、日本に関しては「鎖国論」として今日知られている論文など、わずかであったが、この論文の途中で「私は別途日本誌を書き、記述するつもりである」と日本誌の刊行を予告した。
1716年11月2日、死去。
(引用 エンゲルベルト・ケンペル著/今井正編訳 【新版】改訂・増補『日本誌』) (参考 小堀桂一郎著『鎖国の思想』)
ケンペルの『日本誌』に描かれた日本國地図
『モーツァルトの血痕』 辞典
ケンペルの『日本誌』 ロンドンで出版された英語版
『モーツァルトの血痕』 辞典
出島
1824~25年ごろの鳥瞰図
『モーツァルトの血痕』 辞典
世俗的皇帝
源頼朝をその初代とする歴代将軍のことである。
『モーツァルトの血痕』 辞典
宗教的世俗皇帝
日本の宗教的世襲皇帝とは、いわずもがな天皇のことである。
ケンプファーは日本には二人の皇帝がいると『日本誌』で指摘している。
一人は宗教的世襲皇帝で万世一系として、1693年の今日に至るまで114代に渡って皇位を継承しているという。
ケンプファーの著述には天皇という名はあまりなく、帝(Mikaddo)、内(Dai)、王(Oo)、皇(Kwo)、帝(Tai)、天子(Tensin)、通俗には内裏(Dairi)と呼ぶことが多い、とする。ローマ教皇であるかの如くみなされている。ともしている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
もう一つの話
ケンプファーが掲載しているこの物語は、あきらかに、徐福伝説である。徐福伝説は江戸時代には、日本各地に存在していた。
『モーツァルトの血痕』 辞典
バビロンの言語混乱の際に
〈創世記〉第11章で語られるバベルの塔のエピソード。それまで人類はみな同じ言葉で話していたが、やがて人間たちは煉瓦と瀝青(アスファルト)でもって、天にまで届こうかという塔を建てようとした。主はこれを見て言った。
『彼らがみな、一つの民、一つの言葉で、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはできない。さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、彼らが互いのことばが通じないようにしよう』こうして主は人々を、そこからの地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである(〈創世記〉第11章6~9節)
この塔は史実であったとも、様々な言語がある理由を説明するための寓話であるとも言われる。ただしバビロンの辺りに90メートル以上あったと思われる建築物の基盤が発掘されている。
2010年1月、アラブ首長国連邦に世界で一番高いビル「ブルジュ・ハリファ」が完成した。地上828メートル、206階のこの建物を見て、主は何を思う?
『モーツァルトの血痕』 辞典
エジプト王タモス
七楽章よりなる合唱と間奏曲。モーツァルトが作曲した唯一の劇音楽である。
劇の作者はフリーメーソンであったトビアス・ヨハン・フライフェルン・フォン・ゲブラー男爵で、元々ヨハン・トビアス・ザットラーという人物に作曲依頼したが、気に入らず、最終的にモーツァルトが完成させた。1773年4月4日、ウィーンにて初演された。79年にシカネーダーからの注文で管弦楽の部分を大幅に修正し、今日のものになった。エジプトが舞台であり、劇が象徴的に死で終わることや、テラソンのエジプト秘儀小説『セトス』が下敷きにあることなどから、『魔笛』に先駆けるシカネーダーとモーツァルトのフリーメーソン劇であったとも言える。
『モーツァルトの血痕』 辞典
未だ結論は見いだせない
エデンの園の位置
〈創世記〉第2章8節~第3章24節に描かれる、最初の人類アダムとイブの住む楽園のことである。『聖書』には、東の方(第2章8節)にあったとだけ記載する。
ヘブライの神秘学「カバラ」の根源にある「知恵の樹」と、アダムとイブが食べなかった、神が封印した「生命の樹」があったとされる場所で、18世紀の時点では、エデンは土地の名前を指し、未知なる東方にきっと存在すると思われていた。また、十字軍の遠征の真の目的はエデンの園の探索であったという説もある。
『モーツァルトの血痕』 辞典
火、が言語
ピラミッドの語源
18世紀において、エジプトは未知なる国に限りなく近く、ピラミッドの謎は近代的な解明という点においては、まだまだ謎であった。この頃は「ピラミッドの語源は、ギリシャ語のピュル(火)であり、そのためピラミッドは万物の生命たる唯一の神火を象徴的に再現したものだと民間では想像されている。(引用 『古代の秘儀』)」と思われていた。実は現在もピラミッドの語源はわかっていない。ギリシャ語のピラミスがその語源とする説もある。小麦で作った三角形のお菓子のことだという。
当時のエジプト人は、ムル、メルと言っていた。
『モーツァルトの血痕』 辞典
その出生は不明
モーセは、〈出エジプト記〉によるとエジプトに行ったヤコブの後裔と示唆される。そしてレビの家の人がレビ人の娘をめとり、その女が身ごもって生まれた男の子がモーセである。その頃、エジプトの王は「生まれた男の子は全部ナイル川に投げ込まなければならない」という命令をだしていたので、隠しきれなくなった女は、パピルス製のかごに瀝青と樹脂を塗って、その中に子を入れ、ナイル河の岸の葦の茂みの中に置いた。しばらくするとファラオの娘たちが水浴びをしようとナイルの川辺を歩いているうちに、かごを見つけ、そのまま息子として育てた(『出エジプト』第2章1一~10節)。
セシル・B・デミル監督の一九五七年の映画『十戒』ではチャールトン・ヘストン演じるモーセは、王子として育てられているような演出をしたが、『聖書』にはそれは示唆されていない。また、映画と違い、ファラオの娘はモーセの母をヘブライ人と知って、乳母として雇っている。
しかし、モーセはヘブライ人ではない、とする主張もあった。それについては本章で触れる「モーセの名前の由来」を参照していただきたい。
『モーツァルトの血痕』 辞典
エジプトの知恵
モーセとエジプトの知恵
「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました」(新約聖書〈使従の働き〉第7章23節)
『モーツァルトの血痕』 辞典
十戒
(じっかい、ヘブライ語: עשרת הדיברות、英: Ten Commandments)
『旧約聖書』出エジプト記と申命記に記される、モーセによるイスラエルの民に与えられた十の律法である。これは、シナイ山で神がモーセに託した、神と人との契約であり、その言葉は、神自らが石板に書かれた、と出エジプト記に記される。
最初の4つは神に対する戒め、後の6つは人間関係における戒であり、この十戒に従うのであれば、神は繁栄を民に与えるというものである。
①あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
②あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
③あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
④安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
⑤あなたの父と母を敬え。
⑥殺してはならない。
⑦姦淫してはならない。
⑧盗んではならない。
⑨あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
⑩あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
『モーツァルトの血痕』 辞典
モーセ五書
「モーセ五書」
『旧約聖書』の創世記から、出エジプト、レビ記、民数記、申明記にあたる最初の五書が、モーセの直筆で書かれた「モーセの五書」と伝えられている。
「モーセ五書」は、モーセ自らが書いたものであると長い間信じられてきた。
つまり神の言葉を直接聞くことが出来たモーセが書く事で、そのままそれは一言一句、神の啓示であり宣言となるからであった。そうであるならば、宇宙創世、人類の誕生の秘密や、エデンの園にある「知恵の樹」と「生命の樹」に関する情報も取り込まれているに違いない。すなわちヘブライ語の「モーセ五書」には神の隠された真意、奥義、秘密が必ず選ばれし者だけにわかるように明示されているはずで、そのキーワードを読み取ろうとするカバラの発送の根本は、まさにモーセが書いた、という一点が重要となるわけである。
しかし、モーセの死んだ後のことも書かれてあり(「申命記」第34章7~12)、近代の文書仮説では、モーセの自筆説は否定されている。
『モーツァルトの血痕』 辞典
法則によって並び替え
カバラの数秘術であり、ゲマトリア数秘術ともいうもので、ヘブライ文字や数字に潜む神の真の言葉を読み取ろうとするものである。主に『聖書』の中に隠された意味を読み解くために使われる。これは、モーセに託された神の言葉に記されなかったものを導き出そうとするものである。
ヘブライ文字の一つ一つが数字に変換されるものである、という考えにより、ヘブライ語で書かれた聖書の文面を、いったん数字に変換し、それを足したり、同じ数字のものは同質とみなすことで、別の神のメッセージを読み取るのである。
のちにこれは、神学や錬金術に取り込まれ、占星術やタロットとも結びつくことになるが、本来はヘブライ文字でしか意味をなさないものである。
以下は、英語版のWikipediaより転用した。
Decimal Hebrew Glyph
1 Aleph א
2 Bet ב
3 Gimel ג
4 Daleth ד
5 Heh ה
6 Vav ו
7 Zayin ז
8 Het ח
9 Tet ט
Decimal Hebrew Glyph
10 Yud י
20 Kaf כ
30 Lamed ל
40 Mem מ
50 Nun נ
60 Samech ס
70 Ayin ע
80 Peh פ
90 Tzady צ
Decimal Hebrew Glyph
100 Koof ק
200 Reish ר
300 Shin ש
400 Taf ת
500 Kaf(final) ך
600 Mem(final) ם
700 Nun(final) ן
800 Peh(final) ף
900 Tzady(final) ץ
『モーツァルトの血痕』 辞典
知恵の秘密を解する代表者話
代表者とはモーセのことである。
モーセという名前の由来にそれがある、というのが当時のオカルティストたちの認識であった。
「歴史上モーセとして知られるイスラエルの『大長老』の真実の名前が突き止められることは、たぶん、決してないだろう。モベという言葉をエジプトの秘教の意味から理解すると、『知恵の密儀学校』に入学を認められ、神々の御心と、生命に関わる密儀とに関し、無知な人たちに教えるため、世に出て行った人のことを言うが、この密儀はイシスとオシリスとセラピスの神殿内で説明された。モーセの国籍についてはいろいろな議論がある。彼はユダヤ人であって、エジプトの支配階級の家の養子となって教育を受けたと主張する人もいるし、モーセは純然たるエジプト人だったとする意見を説く人もいる。中には、モーセをヘルメスと同一人物とし、その理由は、宗教体系をこの著名な開祖が二人とも、神自身の御指によって書かれたと想像させる石版を天から拝領しているからだ、と信ずる人すら少数だがいる……。」
(引用 『カバラと薔薇十字団』)
『モーツァルトの血痕』 辞典
幕屋
『モーツァルトの血痕』 辞典
ミヤの門前
スフィンクスというとギザの大ピラミッドの前にある大スフィンクスを思い浮かべるが、これはエジプトの王家の象徴であり、王により神殿が造られるとその前面に置かれた彫像であった。従って、スフィンクスはエジプトの各地にある。また人面で身体が獅子(背から翼を生やしているものもあるが、エジプトのものには無い)という伝説の怪物は、ギリシャから中東までに伝えられていた。スフィンクスの発音は、ギリシャ語のスピンクス(きつく縛る、絞め殺す)から来ていて、古代エジプトではどう呼ばれていたのかは不明である。エジプト考古学者の吉村作治は、スフィンクス「シェプス・アンク=アンク神の御姿」であるといい、シェプスは古代エジプト語で姿、アンクは復活、再生を意味し、つまりは復活神の化身にとなるという。ちなみにギザの大スフィンクスは、カフラー王のピラミッドの東に位置し、正しく真東を向いている。そこからピラミッドへ向かう参道は西へと向かう方向性となる。幕屋の原形がここにあるのかも知れない。
今日ではいろいろ解明されたスフィンクスだが、モーツァルトの時代は、ギザのピラミッドもスフィンクスも砂漠に埋もれていた。したがって人面、獅子の身体、有翼のこの怪物は、ギリシャ神話のオイディプスがエジプトの都市テーベで、スフィンクスの謎解きに象徴されるように、自然の極秘、秘密の真理を具体化した、エジプト秘儀の伝道師と考えられていた。
日本の神社の入り口に置かれる狛犬の発祥は、諸々説はあるが、起原をエジプトのスクフィンクスに求める説もある。通説では、インド、中国、朝鮮半島を経て平安時代に伝来したというが、飛鳥時代にはすでに到来していたという説もあり、天皇の玉座の守護神として置かれるようになったものが、やがて神社、仏閣の前に置かれるようになったという。日本には獅子(ライオン)は生息していなかったので、職人の想像力がこんにちの形態をもたらせたという。
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それぞれ支族に分かれて宿営した
画のように、幕屋を中心に各支族ごとに分かれてテントを造って宿営したと『旧約聖書』にある。民数記によると登録されたイスラエル人の総数は60万3550にんであったという。
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ダビデ
初代のイスラエル王サウル亡き後、預言者サムエルの神託によって即位した、2代目のイスラエルの王である。もともとはベツレヘムに住んだエッサイの8人息子の末っ子で、羊の番人をしていたが、サウル王に預けられた。しかし王の妬みを買って命を狙われ、10年間の流浪の生活を余儀なくされ、この間にユダ族の王となっていた。
ダビデが即位したのはBC1003年33年間王の地位にあった。この間、ペリシテ人やカナン人を打ち破り、首都イェルサレムをヤハウェ信仰の中心地として定め、契約の箱もこの地に運び上げた。そしてイェルサレムに契約の箱を祀る為の神殿を経てようとするが、これは神に許されず、次のソロモン王で実現されることが約束された。
BC961年に没するが、後を継いだその子、ソロモン王とともにイスラエル王国の全盛時代をもたらせたのである。
ダビデ王は今も、シオニズムを理想とするユダヤ人たちにとっては、いつかダビデ、ソロモンを継承する約束の王が現れることを信じ続けるが、その約束のメシアがキリストであったが、これに異議を唱えた一部のユダヤ人たちによって受難を受け、抹殺されたのである。
以後、神の国はユダヤ人からヨーロッパ人の国々に約束された、というのが、18世紀の倭ヨーロッパにおけるキリスト教の概念であった。
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ソロモンの神殿
右に記したように、ペルシャによりパレスチナに戻ったユダヤ人たちが、イェルサレムに再建したソロモン神殿のこと。建設が開始されたのは紀元前528年で今のユダヤ教もこの頃確立した。イエスが活躍してきた頃に、この神殿は建っていたのである。しかし神殿の中には当然あるべき「契約の箱」は無かった。
ユダヤは支配されていたローマに対し宣戦布告をし「第一次ユダヤ戦争」を起こすが、紀元70年にイェルサレム陥落の際に神殿も破壊された。続く132年の「第二次ユダヤ戦争」にて、ユダヤは完全にローマに追放され、以来、ディアスポラの民、国を持たないユダヤ人が始まった。
現在、神殿の丘はイスラエルの領土内にあるが、イスラム指導者によりその他は管理され、岩のドームが建っている。岩のドームとは聖なる岩を祭る八角形の神殿で、アブラハムが息子イサクを神に捧げようとした石の谷、イスラム教の開祖ムハンマドが昇天の旅を体験した場所ともされ、イスラム、ユダヤ、キリスト教の聖地となっている。
今もユダヤ人が破壊された神殿を嘆き悲しむ為の「嘆きの壁」が残っているが、これは第二神殿の西側外壁の部分である。
チャールトン・ヘストン主演の映画『ベン・ハー』の最初の場面に出てくる神殿がソロモンの第二神殿である。
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『新約聖書』ヘブライ人への手紙
〈ヘブライ人への手紙〉第10章19~20節
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『新約聖書』ヘブライ人への手紙
〈ヘブライ人への手紙〉第9章23節
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司祭たちが担いで
フランスナンセイブオーシェにあるサント・マリー大聖堂のリレー府に彫られた契約の箱を担ぐ司祭たち。
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約束の地カナン
カナンの地
イスラエル人たちが40年に及ぶ荒野の放浪生活の後に、神の約束の地、カナンに入植したと『聖書』には記される。それは『乳と蜜の流れる場所』とされ、その地に入ろうとするならば、必ず二度の水(海ないし河?)を渡らなければならない、とする。イスラエル人たちはその言葉を信用し、モーセに率いられ紅海を渡った。パウロはこの出来事を洗礼と解釈した。カナンの地が具体的にどこにあったのかは、考古学的には実証されていない。
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箱はアカシア材で造られた
純金で覆われたもの
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『新約聖書』ヘブライ人への手紙
〈ヘブライ人への手紙〉第9章24節
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ダビデの契約
サムエル机記下〉第7章12~13節では神は預言者ナタンの夢の中で言う。
「あなたの日数が満ち、あなたがたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたたちのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く建てる」
さらに7章16節ではこう預言する。
「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」
これはダビデの家との契約であった。ダビデはこの後イスラエル全12部族の2代目の王位に就き、イスラエルの全盛期を迎えることとなる。その王位は息子のソロモンが継ぎ、その後イスラエルは分裂するが、モーセの律法〈シナイ契約〉を優先した北イスラエル王国と、このダビデ家によるイスラエル王国の存続を保証した「ダビデ契約」を採用したのが南ユダ王国に残った、ユダ続とベニヤ民族であった。その後約400年後にナザレに降誕するイエス・キリストは、ダビデ家の子であり、『聖書』の中では「ダビデの契約」の履行であるとするものである。
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バアル神
バアル神とはカナン人の神であり、乾燥の地に降る雨や嵐を象徴する男性神であった。バアルとはセム語で「主」を意味した。バアル神は偶像を伴う宗教であったので、『聖書』ではたびたび悪魔の宗教として登場する。
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この時すでに姿を消していた
契約の箱、ダビデの契約の項も参照していただきたい。
北イスラエル王国は紀元前721年に滅ぼされ、十支族は捕囚となってアッシリアに連れて行かれた。
南ユダ王国は紀元前586年にバビロニアによって滅ぼされ、ユダ族とベニアミン族はバビロンの捕囚として連行されたが、バビロニアも滅んだため、この2部族だけがイスラエルに帰還する。
彼らは、ダビデ家の直系でもあったゼルバベル王のもとソロモン神殿の跡に、第2のソロモン神殿を再建するが、ペルシャ帝国の支配下にあった。そんな中で新しい戒律、新しい教義でもって今日のユダヤ教の教義を作り上げていくが、それもやがてローマ帝国によって第二神殿も壊され、以後、ソロモンの神殿は今日に至るまで再建されていない。
またユダヤ人たちはローマ軍に対しては蜂起したが、大敗を喫して、イスラエルを追放された。1948年5月14日、イスラエル国が独立。しかしその結果、パレスチナ人たちの土地を奪う行為だとして、独立時から宣戦布告し、現在に至っている。
失われた十支族は今もって、行方不明のままである。
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『年代記』
エウセビオスの『年代記』
エウセビオス(263~339)は、教会歴史家で、カイサリアの司教でもあった。アレキサンドリアの司教アリウスの説を狂信し、三位一体論に異論を唱え、ユダヤ教同様、唯一創造主の神だけを認めようとするアリウス派を退ける第一ニカイア公会議の主催者の一人であった。結果として、アリウス派を追放したが『聖書』解釈の立場からは、アリウス派に賛同していたという。
エウセビオスはその著書『年代記』の第2部で、イエス・キリストの生誕を創世紀元5199年とする「アブラハム紀元」を年号に当て、その時間軸の中で第一部にあてられた「カルデア人」「ヘブライ人」「エジプト人」「ギリシャ人」「ローマ人」の歴史を取り込もうとした。しかし、マネトの『エジプト史』に照らし合わせると、エジプト王朝の歴史は、天地創造以前に遡るという問題を引き起こし、キリスト教の立場からはそれを容認できず、「多分同時期に何人もの王たちが同時に統治していた」などとしたが、それもなおある疑問は解消されず、後世の学者たちを悩ますことになった。
なお、エウセビオスのこの「年表」は、カトリック教会においてその後長らく公認され、ヨーロッパの普遍的歴史観の枠組みとなっていた。
(参考 岡崎勝世 『キリスト教的世界史から科学的世界へ』)
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マネトー『エジプト史』
紀元前3世紀頃に、ギリシャ系エジプト人であるエジプト神官マネトーが記したもの。マネトーはプトレマイオス朝初期に仕え、古代エジプトの歴史伝承に伝王統譜を王朝譜に編纂された。
紀元前四七一三年
ユリウス・カエサルにより制定された暦、ユリウス暦は、エジプト暦にみならって、地球が太陽を回る周期を基にして作られた太陽暦である。紀元前四五年一月一日より実施された。この暦の時点は紀元前四七一三年一月一日日曜日正午とした通し番号の日数であり、紀元三八〇〇年一月一日日曜日正午に終わる。
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聖刻文字(ヒエログリフ)
ロレッタストーンに彫られた古代エジプトの文字、ヒロエグリフ
古代エジプトの遺跡に残る象形文字を現す。神聖文字とも言う。モーツァルトの時代、18世紀にはそれを解読できる者は誰もいなかった。
この頃の聖刻文字に関する知識は、アナタシウス・キルヒャー(1601~1660)というドイツのイエズス会司祭が試みたものが基本にあった。これはシュバイエルにあった書庫の中で、ヘルヴァルト・フォン・ホーエンブルグの『宝典』に収録してあった聖刻文字の解読に魅了され、装飾のように扱われていたこの文字は、意味があるものだと直感した時から始まったという。
しかし、その解読は言語学というよりは、オカルティズムの象徴的なものとしたものであり、あるいはヒエログリフが崩れた文字が中国の漢字であるというような、ちんぷんかんぷんのものであった。聖刻文字の真の解読は、1822から24年にかけて、ジャン・フランソワ・シャンポリオンがロゼッタ・ストーンをもって解読するまで、待たねばならない。
(参考 ジョスリン・ゴドウィン著/川島昭夫訳『キルヒャーの世界図鑑』)
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『ローマ帝国衰亡史』
エドワード・ギボン 肖像画
(1737~1792)
エドワード・ギボンは、イギリスの歴史家。
全46巻よりなる大作で、紀元96九六年から始まる古代ローマの5賢帝時代から、1453年の東ローマ帝国の滅亡までを記している。
ローマ帝国はキリスト教の教疑と深く結びつくことから、啓蒙主義の吹き荒れる中、ヨーロッパの知識層には重宝がられた名著である。絶頂期から滅亡に至る巨大な帝国の物語は、アイザック・アシモフのSF大作『銀河帝国の滅亡』の下敷きになっている。
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太陽神ラーが来る船
再現されたクフ王の船(Wikipediaより)
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東方から三賢者がやって来た
アルブレヒト・デューラー制作「東方三賢王の礼拝」
東方よりの三賢者、東方の三博士とも。
当初「マタイによる福音書」に記されていたが、「三人」という数は明記されていなかった。彼らがイエスを見て拝み、捧げた贈り物(乳香、没薬、黄金)の数から「三人」という数が定着したとされる。
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キリストの生誕日
12月25日はクリスマス。イエス・キリストの降誕日、誕生日としての祭日である。 語源はキリストのミサ(Christ Mass)である。ただし、『聖書』にはイエスが生まれた日は明記しておらず、復活したイエスから、太陽神の祭日が関係したと思われる。 モーセの神は本書にて記すように、エジプトの太陽神であるが、キリスト教はその影響下にあることは確実である。なお、12月25日を神の誕生日とする宗教にミトラ教がある。
ミトラは西アジアに現れた契約の神であり、復活する太陽神であり、軍神であり、牛を屠る神であり、ゾロアスター教やマニ教にもミスラとして崇められた。日本では京都太秦の広隆寺に、国宝第1号のひとつに弥勒菩薩半伽思惟像があるが、弥勒は聖徳太子が祭祀しいた神である。
この寺では謎の牛祭が数年前まで行われていたが、この主祭神は摩多羅神である。ミロクとマタラは同神であり、これはミトラ神のことではないかと筆者は思っている。ミトラは西に入ってキリストに、東に入って聖徳太子に影響を与えたのである。
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預言
イザヤが王に告げた預言『イザヤ書』第39章5~6節
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コリント式の円柱
東西南北の象徴学というものがある。 北は暗闇の象徴、南は美の場所、東は神聖なる象徴で、西は暗闇と無知の象徴であり、だから知恵を求めて東へ向かうことを余儀なくされた。
フリーメーソンではしばしば、南を美の場所ということを示すために、コリント式の円柱を立てたのである。
参考 加賀山弘著『秘密結社の記号学』
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太陽信仰
太陽神
古代において太陽を神とした民族は多い。世界に太陽神は無数に生まれたと考えられる。太陽は人間に光と恵みを与え、生命の源であり、自然に神として世界各地で崇められた。しかし太陽を主神とし、皇帝が太陽の子であるとするのは、古代エジプトのファラオと、天照大御神を太祖とする天皇以外にない。
ギリシャ神話のヘリオスやアポロンは太陽神であるが、主神ではないし、ペルシャのフワル・フシャエータはゾロアスター教の太陽神であったが、中級神としての位置付けであった。メソポタミアの太陽神はシュマシュであるが、世界最古の神話文書の主人公はギルガメッシュであった。
インカにおいても太陽神が大きな役割を負ったが、主神は太陽神インティの兄弟、あるいは息子である創造主パチャカマックであり、これも太陽神は主ではなかった。唯一ウィツィロポトチリが、アステカで最も信仰された光輝く太陽神であったが、王がその神の血族であるという伝承は無い。
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図案がイルミナティの一つの象徴
一つは、ピラミッド・アイ 。もう一つは、ふくろうである。
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モーセはエジプトの秘密を修得した魔法師
魔術師モーセ
モーセは預言者であるとともに魔術師でもあった。モーセはエジプトの密議を基にしたモーセ教なるものをヘブライ人たちに与えるが、エジプトの僧侶たちは太陽神ラーと冥界の神オシリスの絶大な力を借り、敵を呪詛し、死者を守って神と交信した。魔術は祈りの文句の響きと言葉から発せられたという。エジプト王朝はファラオ、神官、魔術師が神の奥儀を伝承していたのである。
モーセはファラオの養子になったことでその魔術に精通し、エジプト最大の魔術師となったとれる。モーセは杖を蛇に変え、水を血と化し紅海を割り、火の柱を立たせた。これを奇跡だとする。しかしモーセは神からカバラの知識を与えられ、その中にある魔術の力で、奇跡を起こしたのだとするのがカバリストたちの考えである。モーセはエジプトの魔術師と魔術合戦をして勝利する。これは神の奇跡が魔術を上回ったと解釈される。しかし、モーセの奇跡は魔術によって起こったというのである。
なお、カバリストの中ではモーセは『五書』の他に魔術書も記していて、それは十戒の掟と同じ「十書」であり、未発見の残りの五書は魔術実践の書であるとする者もいるらしい。
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神には名が無い
モーセは預言者であるとともに魔術師でもあった。モーセはエジプトの密議を基 モーセは神の御手で書かれたという「十戒」により、神の名を呼ぶなかれ、とした。しかし旧約聖書では神を表すヘブライ語の単語を使用する。
YHVH、YHWH、JHVEなどがそれで、この四つの子音は、偉大なる神名の「神聖四文字」(テトラグマトン)と呼ばれる。これら四文字は正確にどう発音されるのかわかっていないというが、現在では母音を補ってヤハウェ、ヤーウェ、イェホバなどと呼ばれている。また主という言葉にしてアドナイと発音することもある。また神の複数形(一神のはずなのに!)を表すエロヒム、神々とすることもある。しかしカバリストたちによると神の御名こそに秘密が隠されているとし、モーゼス・ベン・マナハン(一一九五~一二七〇)によれば、「神聖四文字」だけでなく、モーセの五書は実は言葉の切れ目なく続く神の名前が羅列されているという。 しかし、モーセに率いられてカナンを目指したヘブライの民たちには、それは関係の無いことで、偶像もなく、神を呼ぶ手立てもなかったことになる。彼らは神を呼ぶ時には天に向かって「YAH」と呼んだという。ヤァ、ヤ、はヘブライ語で神を呼ぶ、という意味であるという。
(参考 『ユダヤ教の本』カバラ神秘主義の項)
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フウ
エジプトの魔法はフゥと呼ばれる言霊によって行われた。いわば呪文である。
「死ね」と呪文を唱えれば死に、「生き返ろ」と唱えれば再生する。
言葉は森羅万象の本質を顕し、よって言葉によって森羅万象が支配できるともされていた。ゆえに神は真の名を隠しているのである。
この森羅万象の本質は言葉にあるとする概念は、日本神道の言霊思想とほぼ同じものである。
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ルーアハ
一般に霊と訳されるヘブライ語である。目に見えないが、力があり、それが気の中を流れているという考えである。あるいは、息とも訳される。
神の息吹がルーアハである。
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カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト
『古事記』では神倭伊波礼毘古命、『日本書紀』では神日本磐余彦命、と漢字で表記される。第一代天皇である神武天皇のことである。この天皇が実在したかどうかははっきりしない。しかしその月日を干支で記す『日本書紀』の、即位日は「辛酉年春正月庚辰溯」とあり、これをグレゴリオ暦に算出し、紀元前660年2月11日が出たという。これが祝日、建国記念日の根拠である。
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スメラ・ミコト
『記紀』では天皇と書いて、スメラミコトと読ませている。その意味は不明で、ヘブライ・アラム語であるとこを指摘したのは、ユダヤ人
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ヘブライ・アラム語
ヘブライ語と同じ北西セム語の言語。古代のメソポタミアからペルシャ、パレスチナ地域に広く使われたが、もとは古代オリエントの遊牧民族アラム人が使用していたものである。よってヘブライ人たちもアラム語を使用していて〈ダニエル書〉〈エズラ書〉はアラム語により書かれた部分もある。むしろヘブライ人たちはヘブライ語とアラム語の区別なく使用していて、それらを合わせて「ヘブライ人の使用する言語」であるとも言える。 またイエスとその弟子たちはアラム語を用いたという説もある。
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テンショウダイジン
天照大神のことである。
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ヘブライ語とひふみ
ひふみよ……を命蘇らす言葉であることは先のように『旧事本紀』に記載されるが、これはヒフミの神歌であるとされる。この神歌は天照大御神が天の岩戸に隠れたとき、アメノウズメが神舞を舞った時にも歌われた。清音の四七音のみで構成され、言霊宇宙の全ての原理を表しているという。同時に数霊を意味し、十種の神宝の一つを表すものだと、ともする。またヒフミは日本人の使用する数かぞえの言葉でもある。この、ひふみよ……はヘブライの神歌だと説明したのはヨーゼフ・アイデルバーグであった。 『大和民族はユダヤ人だった』によると、「日本の『神代の時代』はヘブライの創世記にある周知の物語と似ていないように見えるが、それでも、ヘブライ起源であるという可能性を示すいくつかの手掛かりがある。最も明確な手掛かりは、何といっても、コヤネが日の女神、アマテラスオオミカミを洞窟からさそい出そうとした時に詩われた祈りの言葉である。
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