雑記帳 その一(2019年4月号)


 

WEBマガジン『神秘之國、日本』

中山市朗・雑記帳  その一

 



 
 
 
 
 

中山市朗・雑記帳 その一

 
 新連載についてのご挨拶
 〜景教について〜
 
 今回より、「神秘之國、日本」というWebでのコンテンツを展開いたします。
 
 様々な日本の古代史、あるいは神々について、あるいはオカルト、神秘学の世界についていろいろとテーマを設け、神秘とロマンに彩られた世界を楽しんでいただこうとするものです。
 過去について考えるということは、未来について考えるということです。
 そして、オカルト、神秘について知ることは、目に見えない世界があることを認知することです。
 目に見えなくても、気配や神威は感じることができます。日本の神々も見えませんが、現代の日本人も、神社で手を合わせます。いい気配もあれば、悪い気配もある。
 
 我々の生きる社会の何かしらある閉塞感、不安感といったものは、案外目に見えない何かが作用しているからかも知れません。
 
 そういったことを提示するコンテンツの一つが「中山市朗・雑記帳」というわけです。
 メインコンテンツの『モーツァルトの血痕』や5月から掲載予定の「聖徳太子と秦氏と践祚大嘗祭」などに関連した記事を中心に、日本の神話や超古代について、天皇について、古神道や密教、陰陽道、あるいは、日ユ同祖論、そこから『聖書』や西洋の神秘学といったものについてもいろいろと言及しようとするものです。
 
 今回は、それらのコンテンツをより深く知るための「景教」というものについて、お話します。基礎知識として、このことを知っていただくと、ますますここで展開するコンテンツの記事は、興味深いものとなると思われるからです。
 
 日本にキリスト教が初めて入ってきたのは、いつでしょうか?
 はい、教科書で習いますね。
 
 天文18年(1549)に、カトリックの修道会、イエズス会のフランシスコ・ザビエルによるものでした。いごよく伝わるキリスト教と覚えませんでした?
 
 当時の日本人には馴染みのない、一神教。
 日本は、山や海、川などのあちこちに、アニミズムの神々がいましたから、神は唯一絶対神しか認めない、というキリスト教の在り方は、当時の日本人にはどう写ったのでしょうね。
 
 また、仏教は、仏像を拝む偶像崇拝ですが、キリスト教は偶像崇拝を認めず、それは、究極罪とされました。ですからその布教は困難を極めましたが、鉄砲や南蛮貿易による利益を考えた大名や、純粋にキリスト教の教えに感化された人たちも当然いて、当時人口が2500万人だった日本人のうち、約60万人がキリシタンとなったといいます。
 ですから、今の日本よりキリスト教の信者の比率は、圧倒的に多かったということになります(現在では、カトリック、プロテスタント、正教会などを合わせても100万人ほど、つまり全人口の1%にも満たないのです)
 
 しかし、キリスト教は江戸幕府によって、徹底的に弾圧され、さらに鎖国政策と檀家制度によって、キリシタンはほぼ壊滅しました。檀家制度というのは、幕府が武士、町人、農民を問わず特定の寺に所属し(つまり檀家となる)、寺は檀家に対して寺請証文を出すというもので、この証文が受けられないと、無宿者かキリシタンのレッテルを貼られたわけです。
 これが、教科書に載る日本とキリスト教の歴史です。
 
 ところが、日本にはその遥か昔、飛鳥時代に、キリスト教は入っていたという説があります。
 そのキリスト教は、ネストリウス派キリスト教、あるいは景教(けいきょう)といいます。
 このことは教科書や歴史本などにはまったく掲載されていません。
 しかし、日本はともかく、景教が7世紀ごろに、唐に来ていたのは確実なことなのです。今のローマ・カトリックのようなものではなく、東洋化したキリスト教です。
 では一体、景教とはどのようなキリスト教なのか、正確に言える人は少ないのではないでしょうか?
 
 『國史大辞典』(吉川弘文館)の景教の項にはこうあります。 
 「キリスト教のネストリウス派に対する中国における名称。エペソ宗教会議で異端とされてから、東方で布教するようになった。中国への公式な伝来は、唐の太宗の貞観九年(632)にアルワーン(阿羅本)たちが来たとされる。太宗は人々を救うよい宗教と考え、都の長安に教会を建立させ、ペルシャ(波斯)寺とよんだ。のち諸州にも教会が建てられたが、それらの寺は大秦寺とよばれ最高位の景教僧を鎮国大法主と称した。則天武后のとき一時弾圧されたが、玄宗が宮中でその礼拝をさせてからまた、教勢がのび、徳宗の建中二年(781)には長安に「大秦景教流行中國碑」建てられるまでになった。しかし、武宗の仏教弾圧事件に巻き込まれて弾圧されてからは、わずかに甘粛・モンゴル地方に残存するだけになった。元のフビライのローマに遣わした使者は、景教僧であった。景教徒は天平八年(736)に日本にも来たが、受容されなかった」
 
 もう少し詳しく解説しましょう。
 
 エペソ会議というのは、431年、東ローマ帝国のテオドシウス二世の招集によりエフェソス(Ephesos)で開かれた宗教会議のことであり、コンスタンティノプール宗主教であったネストリウスの重大な発言を問題にし、解決しようとしたものでした。
 
 4世紀のキリスト教の正教は、唯一神たる神、イエス、聖霊はまったく同質であるという三位一体を正統教義として体系づけていましたが、ネストリウスはこれに異議申し立てをしたのです。
 「ユダヤの神学見地からは、キリストは生まれながらの神ではなく、聖霊の御力によって聖なる人となったものだ」という主張だったわけです。従ってキリストの母マリアも、神の母と呼ぶことを否定しました。キリストは神ではなく、神聖なる模範的人格者である、としたわけです。
 つまりは、正教会やカトリックが、神性のみの単性論であったところを、ネストリウスは、キリストの神性と人性を区別したわけです。
 正教やカトリックからすると、正教たる三位一体を否定されたと思うわけです。
 当然、エフェソス会議は、ネストリウスの考えを異端として主教職を解きました。それでもネストリウスは再度議論に挑戦し、451年のカルケドン公会議において、追放が確定したのです。
 
 一方、ネストリウスに賛同する人たちもいて、彼らによってネストリウス派の教会が建てられるようになりました。ローマで迫害されたこの一派は、シリア人が多かったことから、ペルシャでの活動が最初でしたが、後にアラビア、インド、そして中国(唐)へとその布教範囲を広めていったのです。
 
 アルワーン(阿羅本)というのは、ペルシャ僧で、彼を団長とする伝道団が長安に到着するや、太宗は伝道団を宮中に迎え入れ、布教を勧め、資金援助もしたといいます。次の高宗の時代には景教寺を中国の各地に建てるよう詔勅が出され、景教の寺は波斯寺とよばれました。後に大秦寺と改名されます。
 
 景教とは、「光輝く教え」という意味から命名されたという説や景教の唐音とペルシャ語の訛音訳からは「他とは違う、優れた教え」という意味があるとされますが、資料が無いことから、はっきりしたことはわからないそうです。
 さて、『國史大辞典』にある、天平八年に来た景教徒とは、誰のことでしょうか?
 
 『続日本紀』に、こうあります。
 「天平八年八月、帰国した隋唐副使、中臣名代が、唐人三人、波斯人一人を連れて拝謁した。同年十一月、名代ら遣唐使への叙位が行われた際に、李密蘙や唐人の唐楽の演奏家の皇甫東朝らにもそれぞれ位を授けられた」
 波斯人というのは、ペルシャ人のことです。ということは、この波斯人の李密蘙(り・みつえい)なる人物が景教徒ではないかとするわけです。この人物に関しての記録はこれしかないようです。
 
 漫画家でサイエンス・エンターティナーと自称する飛鳥昭雄氏は、「当時のペルシャ人が信仰していた宗教は三つ。ゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教、それぞれ中国では祆教、摩尼教、景教といったが、ゾロアスター教はペルシャ人のみの宗教で、基本的に異民族に布教はしない。摩尼教は唐が邪教として布教を禁じていたので、唐人とともに日本へ布教しにやって来ることは考えられない。というと、残るは景教だ。波斯人、李密蘙は景教徒だったのである!」(学習研究社『失われた原始キリスト教徒「秦氏の謎」』)と、言い切っていますが……?
 
 ただ、2016年に解読された天平神護元年とある木簡に、式部省大学寮に勤務する員外大属波斯清通の名があったことから、「ペルシャ人の官使が平城京で働いていた」との報道もありました。
 このように、日本の文献上には、李密蘙なるペルシャ人らしき人は出てきますが、景教という言葉はどこにも出てきません。ということは、資料評価、検証からよりなる歴史学からすると、日本に景教なるキリスト教が来ていたということは、とても肯定できないわけです。
 
 にもかかわらず、この景教が飛鳥時代に日本に入っていた、という説は確かにあるのです。
 最初にこのことを提唱したのは、佐伯好郎という言語学者でした。
 彼は明治4年生まれで、言語学だけでなく、法学や西洋古典学の研究家でしたが、特に景教に関する研究では国際的権威とされました。その景教の権威が、明治41年に『太秦を論ず』で、秦氏=ユダヤ人景教説を発表したのです。
 
 京都市右京区に太秦(うずまさ)という地名があります。ここは謎の渡来人とされる秦氏(はたし、はたうじ)の本拠地であり、太秦と唐に造られた大秦寺という漢字表記が似ていること。また、大酒(おおさけ)神社は大闢(おおさけ)と表記すると、ダビデとなる。太秦・広隆寺の日に位置するイサラ井という井戸があるが、これはイスラエルの井戸である、などと論じましたが、語呂合わせ的なものだとして歴史学会からは黙殺されています。
 
 佐伯好郎と同じ広島県出身の歴史学者原田実氏によると、佐伯博士はサービス精神旺盛な人で、太秦=ユダヤ論というのは、半分遊び心で論じたようだったと言います。佐伯博士の『景教の研究』等には、日本の景教についての言及は、確かにありません。
 
 ところが、景教の世界的権威がこのようなことを言ったわけですから、戯れだったとはいえ、後世の歴史好事家たちによって支持され、今も秦氏=ユダヤ説、あるいは日ユ同祖論が論じられるにあたっては、必ずと言っていいほど、佐伯博士が唱えた論説が、引用、孫引きされることになったのです(この問題はいずれ『神秘之國、日本』で詳しくやります)。
 
 しかし、唐の長安にはたくさんの景教徒がいたのは事実なわけです。そして、遣隋使、遣唐使が何度も派遣されています。遣使たちは長安に入っていたわけです。大陸のあらゆる文化、宗教を吸収し、持ち帰ろうとしている彼らが景教徒と一切接触していないと考える方に無理があります。また、京都の太秦は、佐伯博士が語呂合わせをしたとしても、確かに他とは異質な祭りや遺跡が残っていることも事実です。
 また、聖徳太子を厩戸と名付け、太子の母、間人(はしひと)皇后が太子を産むにあたって見た夢、などは『聖書』のルカ伝に酷似していると指摘する人もいます。また、太子の姿を模したという救世観音像や太子が建てたという太秦の広隆寺に安置される弥勒半跏思惟像もメシア信仰であることから、太子は『聖書』を知っていたと考えられるわけです。そして、太秦とユダヤの関係もここに合わさってくるわけです。
 
 しかし、長安に波斯寺が出来たのは638年、波斯寺が大秦寺となったのは745年。太子が亡くなったのは622年であることから、いかにしても飛鳥時代とは時代が違う、それはあり得ないというもっともな指摘が常識なのです。でも、この常識ってやつが、どうも人間の頭の中を固くし、自由な発想を妨げている気がします。
 聖徳太子は、おそらく新羅を通じてキリスト教を知っていたと私は思います。
 
 なぜって?
 
 そこはまた、いずれ『神秘之國、日本』で提示し、考察してみようと思います。
 
 まずは、そういう諸々の知識を頭に入れて、明日から配信する『古代キリスト教の痕跡? 三柱鳥居の謎』をお読みくだされば、いろいろと面白い発見があるかと思います。
 
 ちなみに、この三柱鳥居という、三本の柱よりなる鳥居も、京都の太秦にあるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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